事業に至る背景について
01.事業に至る動機について
お住まいになられていた方がご高齢の為、建物を維持出来なくなりました。
土地は財団法人祇神会※1が所有されており、昔の契約書には「土地を返還する際には更地にして返還する、但し他に借り主を探せば更地にする必要なし」と記載されておりました。
建物は京町家であり、居住者、財団法人祇神会も保存したいとのご希望で、両者から相談をお受けしたのが始まりです。
※1祇園祭の山鉾以前の祭礼として担がれていた神輿三基、中御座・東御座・西御座。この三座の神輿渡御を担っていた「三条台若中」という集団が、江戸時代にこの地域で生まれています。
現在も「三若」と愛称され、三若神輿会の名のもとに男衆が集まります。この付近は慶長九年(1604)の二条城築城の頃より二条廻りと呼ばれていましたが、元禄から享保にかけて三条台村に地名が変わりました。
元禄の頃(1690年頃)から八坂神社の神輿渡御に奉仕し、三条台村の有志が相集いむらの発展と共に「三条台若中」という組織をつくり巡行に携わってきました。尚、神輿渡御については、明治までは中、東、西の三座とも神輿の渡御に携わっていましたが、現在は中御座のみをかついでおります。
「三条台若中」は、昭和五年に祭りの実行団体の三若組(現在の三若神輿会)と維持運営の祇神会に組織変更され、現在も活動を続けております。
三条台若中
http://find-travel.jp/article/22792
02.地域の由緒・沿革
本建物は千本三条通りを東に二筋目の通りを北に上がった東側に位置します。
このあたりは、平安時代においては朱雀大路の東側に位置し繁栄していましたが、 大内裏の荒廃、平安京の解体が進むと急速に凋落し、中世においては荒地と化していたようです。
近世以降、二条御城廻り、または三条台と呼ばれております。明治維新を迎えると西ノ京村に併合され、大正7年に京都市に編入され、当地域の発展は、明治30年(1897)京都鉄道(現JR西日本山陰本線)の開通に伴う二条駅の開業によるところが大きく、以後急速に市街地化されていったと思われます。
現在も三条通は千本通から堀川通までアーケードがかかる人通りの多い商店街となっており、千本通も二条駅周辺の再開発などで賑わいをみせています。
03.建物の沿革
本建物は数ヶ月前までは住まいとして利用されていましたが、現在は空き家になっています。十数年前までは電気部品を製造する工場として稼働していたようです。
築年数は不詳であるが、閉鎖登記には大正7年(1918)の記録があります。