ブログ最終投稿(アグリ依頼原稿より)
2018年3月28日
「日本の食を守りたい」ろのわファンド
これが募集期間中最後の投稿となります。
まだ満額まで至っていませんが、多くの方々からご支援を頂き感謝いたします。
最後の最後まで募集いたしますのでどうぞよろしくお願い致します。
今回は、熊本県が発行する「月刊農業アグリ」からの依頼された原稿の原本を投稿いたします。これから農業を目指す若者に向けた内容で依頼された内容となります。
■恩師の言葉「自分の仕事が好きになれ」
菊池農業高校の校長、前田斎先生が卒業記念の湯飲みに書かれた言葉だ。当時は気が付かなかったが、農家の長男として就農が決まっていた私にとって最も大事な言葉だと思うようになったのはつい最近のことだ。言葉の意味深さはその事に関連した経験の多さによって重みが変わる。
就農した当時、農業が特に好きだったわけでもなく、確たる目標もなく、燃えるような情熱もなかった。 唯一あったのは甘えだったが、それすら当時は気が付いてなかった。養豚+水稲+麦を家族経営で営んで、何の不満も感じることもない日々だったが、結婚を機に経営を任されたことからそれは変化していった。
■挫折と決断
老朽化で新たな設備を計画していた養豚部門で、資金調達に失敗した。父と世代交代して初めて直面した最悪の事態に廃業を決断することになる。家庭を持ってから最初の試練に心が折れそうになり、不安を覚えたが、それに追い打ちをかけたのが、父との確執だった。時に憎しみさえ感じることもあり、思い悩んだ。そして次なる決断は、家業は父に任せて、と言えば聞こえがいいが、なかば投げ出して勤めに出たことだ。
初めて経験するサラリー生活はとても心地良かった。自らの判断も不要で、与えられた仕事をこなすだけで給与がもらえることは夢の様に感じた。一方、父はその頃から無農薬農業を始め雑穀栽培に夢中だった。安定した売り先もなく、しかも無農薬栽培のために収量も少なく、炎天下で草取りをする母にその負担はのしかかり、わずかな収入で雑穀栽培の大きな先行投資(借金)をする父の行いは、親族会議にまで発展し、皆で抑圧したが、父は、目指す所に妥協せず、我が道を突き進んだ。
■人との出会い
環境保全型農業研究会(故片野教授 東海大学)の元に、九州の農家や農産物流通に関係する方々が集い、有機農業の栽培現場研修や座学などで組織的な活動をしており、父もそのメンバーだった。その影響もあり、販路も少しずつ広がっていたようだった。その中に、「旬の無農薬・有機野菜の家庭料理の店」のレストラン・ティアの元岡健二社長がおられた。ある日、父が作る雑穀をお店の料理に使いたいと私を訪ねて来られた。なぜ私だろうと思ったが、そこには元岡社長の大志があった。農業の後継者問題だ。「あなたはお父さんが行っている農業を引き継げますか?」「私は、この国の農業を自分が出来る土俵で守りたい。」「だから経営を引き継ぐ前提であなたと取引したい。」当時は、いちばん避けていた所だった。返事を渋ると、翌週にティアに呼ばれた。はじめて伺ったそのレストランで、私の目に飛び込んできた光景は、いまも鮮明に残っている。食事をされている家族やカップルの幸せそうで満たされている情景があったのだ。自分が作った農産物がこれだけ多くの人を喜びで満たすことが出来るなら、それは大きな価値があると感じた。父親との確執などと言った小さなことに執着していた自分が恥ずかしく思えた。私にはもう、元岡社長の言葉での説得など不要になっていた。「この国の農業を自分の出来る土俵で守る。」その実践を見たからだ。まもなく会社勤めにピリオドを打ち、再就農した。
■有機栽培の壁
無農薬栽培とは、正確に言うと栽培期間農薬不使用になる。対して有機栽培とは有機JASの認証をクリアしてJASマークを付けられる農産物及び加工品である。有機認証を取得する前、無農薬栽培と表示して雑穀の販売を行っていた時に、監督機関から指導を受けた。この法治国家の中で、無農薬で栽培したものを無農薬栽培と言って販売して何がいけないのだ。私にとっては、とても理不尽な指導であった。その後、法整備も進み有機JAS法が制定され、有機認証を取得する運びとなるが、その詳細に納得しているわけでは無い。農薬・化学肥料を一切使わずに生産している生産者に生産圃場履歴を残し、格付けその他、煩わしい記録など生産現場で行わなければならない。実に面倒な作業としか思えない。消費者にいちばん伝えなければならない情報は、いつの時期、何のためにどのような農薬・化学肥料を使用して栽培したのか。と言う使用した履歴の開示こそ伝えるべき。しかし、そんなことをしたら口に出来るものは無くなってしまいかねない。ましてや国の経済に大きなダメージが生じることも避けられない。世界的にみても敗戦から短期間でこれだけ飛躍した国があるだろうか、それは良いことに間違いないが、農薬・化学肥料を使って、農産物を工業製品化した生産のあり方、遺伝子組み換え、これらを農業技術と呼ぶのはいい加減やめたいものだ。本物の有機とは、栽培者との信頼関係があれば事足りるものなのだ。
■生かされている事実
農業は命と直結した産業である人間が生きて行くためにはこの体を保って行かなければならない。そのエネルギー源は、食べることから始まる。同じものでもどんな栽培の仕方をしたものかでそのエネルギーに差が生じる。これは慣行栽培であれ、有機栽培であれ関係ない部分だ。つまり心をこめて作ったものかどうかだ。そんなもの目に見えないからにわかに信じ難い。しかし、大きな働きが存在する。この部分は、農業だけでなく、他の産業でも言えることで、あの経営の神様と言われた松下幸之助さんは、電球の普及で儲けたのではない。日本国全ての家庭を明るく照らし、多くの人の幸せを心から願い、心をこめ生産した結果だ。つまり、目に見えない思いが結果をもたらすのだ。松下幸之助さんだけではない。「海賊と呼ばれた男」のモデル出光佐三さんなども、大きな偉業を成し遂げた。いうまでもなく国を思う心があったからだ。生かされている事実があると言う事は、使命もそこにあるはず。
医療費が国家予算の約半分、右肩上がりに増える時代に農業を後継する若者、また新規就農を目指す若者たちよ。慣行栽培でも良いが、心をこめて作り、それを食べる人の健康と幸せを願ってほしいものだ。そのような農家が増えることを、私は願う。
■好きこそものの上手なれ
「自分の仕事が好きになれ」農業を好きになれない時期もあったが、農業後継者として生まれたことを認めさせられる人との出会いが、農業を好きにさせてくれたのだと思う。随分と遠回りしてきた。今でこそ「株式会社ろのわ」の代表を務めているが、失敗と挫折、大なり小なり数多く経験した。あれから四十年経って先生から頂いた言葉の意味を、少しだけ知ることが出来たように思う。そして大きな感謝で目に熱いものを感じる。人生の折り返し地点は過ぎている。いま、余命3カ月と言われたとすれば、普段とおりに農業を続けられるか、自信はない。でも農業が好きであることは、家族を思う気持ちと等しいと思う。執筆にあたり、「終生農業をしたい」と言う気持ちを確認できたように思う。
まだ満額まで至っていませんが、多くの方々からご支援を頂き感謝いたします。
最後の最後まで募集いたしますのでどうぞよろしくお願い致します。
今回は、熊本県が発行する「月刊農業アグリ」からの依頼された原稿の原本を投稿いたします。これから農業を目指す若者に向けた内容で依頼された内容となります。
■恩師の言葉「自分の仕事が好きになれ」
菊池農業高校の校長、前田斎先生が卒業記念の湯飲みに書かれた言葉だ。当時は気が付かなかったが、農家の長男として就農が決まっていた私にとって最も大事な言葉だと思うようになったのはつい最近のことだ。言葉の意味深さはその事に関連した経験の多さによって重みが変わる。
就農した当時、農業が特に好きだったわけでもなく、確たる目標もなく、燃えるような情熱もなかった。 唯一あったのは甘えだったが、それすら当時は気が付いてなかった。養豚+水稲+麦を家族経営で営んで、何の不満も感じることもない日々だったが、結婚を機に経営を任されたことからそれは変化していった。
■挫折と決断
老朽化で新たな設備を計画していた養豚部門で、資金調達に失敗した。父と世代交代して初めて直面した最悪の事態に廃業を決断することになる。家庭を持ってから最初の試練に心が折れそうになり、不安を覚えたが、それに追い打ちをかけたのが、父との確執だった。時に憎しみさえ感じることもあり、思い悩んだ。そして次なる決断は、家業は父に任せて、と言えば聞こえがいいが、なかば投げ出して勤めに出たことだ。
初めて経験するサラリー生活はとても心地良かった。自らの判断も不要で、与えられた仕事をこなすだけで給与がもらえることは夢の様に感じた。一方、父はその頃から無農薬農業を始め雑穀栽培に夢中だった。安定した売り先もなく、しかも無農薬栽培のために収量も少なく、炎天下で草取りをする母にその負担はのしかかり、わずかな収入で雑穀栽培の大きな先行投資(借金)をする父の行いは、親族会議にまで発展し、皆で抑圧したが、父は、目指す所に妥協せず、我が道を突き進んだ。
■人との出会い
環境保全型農業研究会(故片野教授 東海大学)の元に、九州の農家や農産物流通に関係する方々が集い、有機農業の栽培現場研修や座学などで組織的な活動をしており、父もそのメンバーだった。その影響もあり、販路も少しずつ広がっていたようだった。その中に、「旬の無農薬・有機野菜の家庭料理の店」のレストラン・ティアの元岡健二社長がおられた。ある日、父が作る雑穀をお店の料理に使いたいと私を訪ねて来られた。なぜ私だろうと思ったが、そこには元岡社長の大志があった。農業の後継者問題だ。「あなたはお父さんが行っている農業を引き継げますか?」「私は、この国の農業を自分が出来る土俵で守りたい。」「だから経営を引き継ぐ前提であなたと取引したい。」当時は、いちばん避けていた所だった。返事を渋ると、翌週にティアに呼ばれた。はじめて伺ったそのレストランで、私の目に飛び込んできた光景は、いまも鮮明に残っている。食事をされている家族やカップルの幸せそうで満たされている情景があったのだ。自分が作った農産物がこれだけ多くの人を喜びで満たすことが出来るなら、それは大きな価値があると感じた。父親との確執などと言った小さなことに執着していた自分が恥ずかしく思えた。私にはもう、元岡社長の言葉での説得など不要になっていた。「この国の農業を自分の出来る土俵で守る。」その実践を見たからだ。まもなく会社勤めにピリオドを打ち、再就農した。
■有機栽培の壁
無農薬栽培とは、正確に言うと栽培期間農薬不使用になる。対して有機栽培とは有機JASの認証をクリアしてJASマークを付けられる農産物及び加工品である。有機認証を取得する前、無農薬栽培と表示して雑穀の販売を行っていた時に、監督機関から指導を受けた。この法治国家の中で、無農薬で栽培したものを無農薬栽培と言って販売して何がいけないのだ。私にとっては、とても理不尽な指導であった。その後、法整備も進み有機JAS法が制定され、有機認証を取得する運びとなるが、その詳細に納得しているわけでは無い。農薬・化学肥料を一切使わずに生産している生産者に生産圃場履歴を残し、格付けその他、煩わしい記録など生産現場で行わなければならない。実に面倒な作業としか思えない。消費者にいちばん伝えなければならない情報は、いつの時期、何のためにどのような農薬・化学肥料を使用して栽培したのか。と言う使用した履歴の開示こそ伝えるべき。しかし、そんなことをしたら口に出来るものは無くなってしまいかねない。ましてや国の経済に大きなダメージが生じることも避けられない。世界的にみても敗戦から短期間でこれだけ飛躍した国があるだろうか、それは良いことに間違いないが、農薬・化学肥料を使って、農産物を工業製品化した生産のあり方、遺伝子組み換え、これらを農業技術と呼ぶのはいい加減やめたいものだ。本物の有機とは、栽培者との信頼関係があれば事足りるものなのだ。
■生かされている事実
農業は命と直結した産業である人間が生きて行くためにはこの体を保って行かなければならない。そのエネルギー源は、食べることから始まる。同じものでもどんな栽培の仕方をしたものかでそのエネルギーに差が生じる。これは慣行栽培であれ、有機栽培であれ関係ない部分だ。つまり心をこめて作ったものかどうかだ。そんなもの目に見えないからにわかに信じ難い。しかし、大きな働きが存在する。この部分は、農業だけでなく、他の産業でも言えることで、あの経営の神様と言われた松下幸之助さんは、電球の普及で儲けたのではない。日本国全ての家庭を明るく照らし、多くの人の幸せを心から願い、心をこめ生産した結果だ。つまり、目に見えない思いが結果をもたらすのだ。松下幸之助さんだけではない。「海賊と呼ばれた男」のモデル出光佐三さんなども、大きな偉業を成し遂げた。いうまでもなく国を思う心があったからだ。生かされている事実があると言う事は、使命もそこにあるはず。
医療費が国家予算の約半分、右肩上がりに増える時代に農業を後継する若者、また新規就農を目指す若者たちよ。慣行栽培でも良いが、心をこめて作り、それを食べる人の健康と幸せを願ってほしいものだ。そのような農家が増えることを、私は願う。
■好きこそものの上手なれ
「自分の仕事が好きになれ」農業を好きになれない時期もあったが、農業後継者として生まれたことを認めさせられる人との出会いが、農業を好きにさせてくれたのだと思う。随分と遠回りしてきた。今でこそ「株式会社ろのわ」の代表を務めているが、失敗と挫折、大なり小なり数多く経験した。あれから四十年経って先生から頂いた言葉の意味を、少しだけ知ることが出来たように思う。そして大きな感謝で目に熱いものを感じる。人生の折り返し地点は過ぎている。いま、余命3カ月と言われたとすれば、普段とおりに農業を続けられるか、自信はない。でも農業が好きであることは、家族を思う気持ちと等しいと思う。執筆にあたり、「終生農業をしたい」と言う気持ちを確認できたように思う。