歌津小太郎こぶ巻ファンド ファンドニュース
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被災地からのレポート2014年8月22日 09:12
復活2年目~7月のまとめ報告と“8月”~あの夏、共に汗を流した仲間たち
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”歌津小太郎 こぶ巻ファンド”の有限会社橋本水産食品の千葉孝浩です。
お中元シーズンの7月を乗り越えまして8月も半ばを過ぎました。学生さんは7月中旬くらいから夏休みですし、社会人の方も長期休暇を取られる時期ですので、我らが南三陸町/歌津・馬場中山地区には2011年以来、リピーターとなってくださったボランティアさん達(私は馬場中山地区応援団と呼んでいますが)が続々と訪れ懐かしい顔を見せてくれています。
8月上旬、中山地区の漁師さん達が震災後初めてとなるホタテの水揚げ作業を行っていました。 少しずつ、海のモノが復活してきています。 馬場中山カオル商店HP20140804
今回の記事ではお中元商戦の話題を中心に7月の報告を致しまして、震災後の3年間の振り返りでは、夏休みに入ったことでより活発となった馬場中山地区を応援するボランティアさんと我々の復興に向けた活動にはじまりまして、その後の強力な応援団達の活動をご紹介したいと思います。このブログでは紹介しきれない沢山の出来事がありましたので全てをご紹介することは出来ませんが、震災後のあの夏から始まった私たちの強固なつながりのその訳を皆さんと共有したいと思います。
また、後半のほうで詳しくご紹介していますが、8月23日(土)に埼玉県蓮田市でのイベントに馬場中山地区を代表して歌津小太郎が出店しますので、首都圏の皆さんでお近く方は是非お越しいただければと思います。
● 2014年7月の歌津小太郎活動報告 ~歌津小太郎自慢の“こぶ巻”、沢山お届けしました!~
6月11日より歌津小太郎が常設の販売コーナーを構えております仙台の老舗百貨店『藤崎』のお中元商戦が始まりまして7月31日まではその対応に集中しておりました。
歌津小太郎自慢のお中元セットの広告写真です。ブログではお味をお届けできないのが残念です。
昨年の今頃はまだ歌津小太郎の新工場が立ち上がったばかりで品数が揃わずにお中元セットを作れなかったので、3年間のブランクを経てのお中元復活となりました。昨年のお歳暮商戦では震災後ようやく復活した“歌津小太郎のこぶ巻”に対しまして予想以上に沢山の皆様からご用命頂きましたが、仙台の夏の贈り物には笹かま、牛タンの名産品に始まり、果物や冷たいお菓子とかがお中元に好まれるだろうと感じますし、藤崎本店のデパ地下には美味しいものが沢山並んでいますから、今回のお中元商戦に関しては控えめの予想をしておりました。
結果は――本当にありがたいことに、震災前の2010年の頃とほぼ同等くらいのご注文を頂くことが出来ました。藤崎の販売コーナーではそれまでの1日二人体制から、このお中元商戦に向けて専任スタッフを、もう一人増員して対応準備をしました。歌津小太郎ではほぼ全ての商品をご試食できるようにしていますので、お立ち寄り頂いたお客様には常連さんにも初めての方にも全て味わって頂いてからお選び頂くようにしています。そうしますと、お店の前に人だかりが出来まして、それを見てまたお客様が足を止められる――まずはご試食頂くことが歌津小太郎の販売スタイルなのです。味わってさえ頂ければ、我々が自信を持ってお送りしている歌津小太郎の味のファンになって頂ける自信があるのです。
藤崎スタッフの稲田さん
こちらは稲田さん(左)と櫻井さん(右)
そんな歌津小太郎の味を全て決めているのが小太郎夫人のあさ子(私=孝浩の母)です。私にとっては自宅の食卓でもなじんでいる歌津の家庭の味ですが、漁師と兼業で水産食品加工を始めて以来、変わらぬ味を作り続けています。
こんぶ炒りを調理中の、あさ子さん
我々の店舗の写真をご覧になると判ると思いますが、ワカメもこぶ巻もその他の海藻商品も遠めに見ると全部が真っ黒! 見た目が本当に地味なのです。ですから、おそらくどんなに腕の良い写真家さんに“こぶ巻”の販売促進用の写真をキレイに撮って頂いたとしても、写真だけで判断してお選び頂くような通信販売には向かないと思っています。それゆえに頑なに対面販売にこだわって、店頭で直接味わって頂いてからお買い上げ頂く歌津小太郎のスタイルが定着したのですが、顔の見える販売を続けていたことが、結果的に我々の復活の大きな後押しとなったことは前回の「6月報告と“7月”」でもお伝えした通りです。 夏の帰省シーズンは都会に戻る親族に“こぶ巻”や“めかぶ漬”を買って持たせる、そういった需要でやはり藤崎の直営店舗は大賑わいでした。
藤崎本館地下2階“歌津小太郎コーナー”
首都圏で歌津小太郎商品を扱って下さっています(株)加藤物産さんによる8月後半から9月にかけての首都圏での販売は、伊勢丹浦和店、小田急百貨店新宿店、東急百貨店東横店を予定しております。詳しくは歌津小太郎ホームページの「販売会のお知らせ」をご覧下さい。
●3年間の振り返り
2月のブログより、毎月ごとに3年間の同じ月は何をしていたか思い出して書き綴っています。 書き残しておくことで未来の自分達へのメッセージであったり、非日常的な体験をした私達の経験が今後の教訓につながったりなど、そういった出来事を皆様と共有できたらと思います。
歌津小太郎の旧工場及び千葉家の自宅のあった南三陸町(旧・歌津町)馬場中山地区は地域全体が壊滅的な津波被害を受け、どうにか津波を被らなかった公共施設・馬場中山生活センターという高台にある建物で200人が避難生活を送ることになりました。一階の天井まで津波を被った千葉家でしたが、6月中旬にはなんとか修復して住める状態になりましたので、避難所を出ることが出来ました。前回の報告では7月には全員が仮設住宅や元の家に戻るなどしまして、7月11日(震災の日からちょうど4ヶ月)の日に避難所の解散となりました。バラバラとなった地域の人々がその後どうなっていったか、私たちのストーリーに是非じっくりお付き合いいただければと思います。
☆ 2011年8月: あの夏、共に汗を話した仲間達
7月に避難所を解散してから6箇所の仮設住宅地区と全壊を免れて元の家に留まった住民とでバラバラに暮らす我々は、いつかはまた「馬場・中山地区」としてコミュニティーを復活させることを強く願っていました。「未来道プロジェクト」は馬場中山地区が津波被害により海岸線の道路が寸断され孤立集落を経験したことから、津波の影響を受けない高台を通る避難道を作るプロジェクトとして自ら計画して進めたプロジェクトでした。8月はそれに加えて「なじょにかなるさープロジェクト」、これは漁師さん達の生業であるわかめ養殖の復活を推進するプロジェクトですが、こちらのほうも活動がスタートしました。沢山の出来事がありまして情報満載ですがお付き合い下さい。
[未来道プロジェクトの8月]
前回の「6月報告と“7月”」の記事で概要をお伝えしております未来道プロジェクトですが、7月いっぱいでルートはつながりましたが、土が露出したままでしたので、少しの雨でも地盤が緩み、車が通れる状態を維持できなくなります。8月はその砂利を敷き作業を中心に進めました。こちらは説明よりも写真で見たほうが伝わると思いますので、後半の特集写真コーナーで[未来道プロジェクト8月編]でまとめておきます。
前回記事の繰り返しとなりますが解説しますと、今回の津波では海沿いを通る道路が分断されたため孤立集落となり、最初の一週間ほどは命を繋ぐ水・食料の確保がままならない状態でした。唯一残った道は高台を通るとても狭い農道(道とは呼べないくらいのもの?)でした。そのルートを使って、今後の避難道として、あるいは高台への集落移転地区(予定地)への幹線道路として使い、百年先の世代まで安心して暮らしていける地域の再建をしようと立ち上げられたのがこの「未来道プロジェクト」です。
この未来道プロジェクトの活動の様子は、避難所生活の頃、震災からちょうど1ヶ月後の4月11日に立ち上げてそれから毎日を写真で綴った「馬場中山地区ホームページ」で発信し続けたことで多くの方からの共感を頂き、次々と広がりを生み出していきました。この頃からテレビニュースの取材も多く入るようになりまして、当時の私たちは自分達が取り上げられているニュース映像を見ている余裕がなくて、何が起こっているかあまり理解していませんでしたが、とにかくいろんな方面から新たな申し出が増えてきたことに驚きを感じていました。
[なじょにかなるさープロジェクト始動!]
「なんとかなるさ」をこちらでは「なじょにかなるさー」と言います。 馬場中山地区の漁業の中心はわかめ養殖でした。太平洋の海流に育まれた肉厚のわかめは最高品質で知られていました。そのわかめ養殖を復活させようというのが「なじょにかなるさープロジェクト」です。今回はその第一章にあたる「わかめ養殖に必要な漁船探し」の写真を後半の特集写真コーナーにまとめております。
なじょにかなるさープロジェクトのメンバーが北海道に到着しました。馬場中山HP20110802
「なじょにかなるさープロジェクト」をご理解頂くためには、まずはわかめ養殖の一年間のサイクルを説明したいと思います。今回のブログの中ではあまりにも長くなるので、次回の記事のなかで詳しく触れたいと思います。
順番が逆になってしまいますが、なじょにかなるさープロジェクトの成果であるわかめ養殖復活の様子はすでにこのブログシリーズの中の2014年3月10日配信版『復活2年目~2月のまとめ報告と“3月”~歌津の新物わかめ&めかぶ』でご紹介しているので、ご関心のある方はそちらをご覧いただければと思います。
[8月、馬場中山地区のつながりを支えてくれた人々]
地域全体の大きな動きとしては「未来道プロジェクト」と「なじょにかなるさープロジェクト」ですが、その他にも6月からスタートしている「苗プロジェクト」(推進代表者はお隣の登米市の有機農家さん)やその他の団体や個人の方がそれぞれの思いで、それぞれの得意な分野で知恵を使って工夫を凝らして我々の地域を支えてくれました。
こちらも説明文よりも写真のほうが伝わると思いますので、後半の特集写真コーナーの中でまとめております。当事者の私たちが見ると、あの夏のいろいろな思いがよみがえり、改めて応援してくださったみなさんに感謝の気持ちをお伝えしたくなる写真ばかりですが、つたない文章のキャプションでなんとか伝われば幸いです。
☆ 2012年8月: 歌津のわかめの早期復活をPR!
[歌津のわかめの復活を発信する機会を頂きました]
7月に引き続き 8月中にも2日間だけですが仙台/藤崎百貨店での販売をいたしました。さらに埼玉県蓮田市でのイベントにも出店出来ました。蓮田市さんとは2011年4月後半に“はすだ支援隊”のみなさんが馬場中山地区にボランティアに来ていただいたことにはじまりご縁ができまして「はすだ市民祭り」にお呼び頂いたのでした。驚くことにはすだ支援隊のみなさんだけでなく、歌津/馬場・中山地区へのボランティア参加がご縁で親しくなりました皆さんが「歌津小太郎応援団」として福井・静岡・神奈川・東京などから遠路はるばる駆けつけて下さいました。大勢の方にイベントを盛り上げて頂き、大成功に終わりました。
この頃から自宅台所工房はフル稼働! 家族総出でわかめを袋詰めしていました。
2012年8月25日 はすだ市民まつり 被災地からのレポート 20131023記事より
[歌津小太郎新工場の建築確認申請]
2011年12月にはいわゆるグループ補助金制度に応募しまして新工場建設の計画を本格的に開始していたのですが、建設費の高騰や建設資材調達の遅れなどさまざまな理由から、建設事業計画を何度も見直した結果遅れに遅れたのですが、ようやく建築確認申請提出(気仙沼土木事務所)にまでたどり着きました! 針生承一建築研究所さんのご尽力になんとかここまで参りました。気持ちばかりが焦っていた日々でしたが、一つずつ問題を解決しながら進めておりました。
気仙沼土木事務所に申請書類提出。こうした役所もプレハブ作りの仮設庁舎です。
[ファンド募集開始してみたら]
2012年6月28日からミュージックセキュリティーズさんによる“歌津小太郎こぶ巻きファンド”の募集を開始していましたが、地域の仕事やわかめ製品を人海戦術で作るなどで目の回るような忙しさゆえに、ときおりお声がけを頂く東京での事業者説明会にはなかなか参加できずにいました。そして工場がないのだから歌津小太郎の主力商品をご説明することも難しい状況でしたので正直申しましてどのくらい皆さんに歌津小太郎の姿が伝わっているか想像が出来ませんでした。後から確認してみますと、ファンド募集の開始直後に出資者として応援いただいた方には宮城県内の方が多かったことが判ります。宮城県内の中でも自分達も地震被害を少なからず受けているが津波被害を受けていないという地域の方々が、我々のような壊滅的に被災してしまった小さな企業の応援をして下さる、宮城県の中での『共助』といいましょうかそういった気持ちを読み取ることが出来、大変に嬉しく思いました。
☆ 2013年8月: 歌津小太郎商品を蓮田のみなさんにお届け
[はすだの皆さんと再会 ]
8月24日、昨年に引き続き埼玉県蓮田市の「はすだ市民祭り」に南三陸町の地域を代表して特産品の販売を行いました。 震災直後から南三陸町歌津馬場・中山地区に支援に入っていただいた「はすだ支援隊」の皆さんにはこの2年半、お世話になりっぱなしでした。 (詳しくは歌津小太郎ホームページの活動日記2012年7月1日)
昨年は歌津小太郎の商品としては半加工品の「湯通し塩蔵わかめ」だけしかお持ちできなかったのですが、今回は封を開ければすぐに食べられるご飯のお供、「陸中漬(りくちゅうづけ)」と「ひと味ぼれ(ひとみぼれ)」もお持ちしました。海のない埼玉県蓮田市の皆さんと、海の幸だけはどこにも負けない宮城県南三陸町の私たち。直線距離で350kmを超える距離、震災前は何の接点もなかったこの二つの地域ですが、地域ぐるみの大きな親戚同士みたいなおつきあいが続いています。
(埼玉県蓮田市 中野市長さんと、はすだ支援隊の皆さん)
[歌津小太郎の8月]
前回の記事に盛り込めなかった7月の話題ですが、大変に遅ればせながらとなりますが、2013年4月27日に開業した歌津小太郎新工場の3ヶ月遅れの開業祝の昼食会を弟の馨(カオル)の夫婦がオープンした“カフェかなっぺ”で開催しました。(正確には7月27日のかなっぺオープンよりも前に団体客受け入れのトレーニングも兼ねてのものでした)
この日、残念ながら小太郎社長も私(孝浩)も参加できなかったので、歌津小太郎製造スタッフのみ7名の“女子会”となりました。 馬場中山カオル商店HP20130723
トレーラーハウスを使った店内の様子は、厨房コーナーから見るとこんな大きさです。 厨房ではカナエさんがパスタを盛り付けているところです。 馬場中山カオル商店HP20130723
普段の仕事姿は帽子にマスクをしているのと、恥ずかしがってブログ用の写真をなかなか撮らせてくれませんので、製造スタッフの普段着姿は貴重な写真です。手前が母のあさ子です。
昼食後は午後の仕事に戻りました。カフェかなっぺの入口から海を臨むとこんな感じです。ちょっと判りにくいですが海岸線からは急な坂を10mくらい登ったところにあります。右手のトレーラーハウス(宿泊用)の左に見える海岸線のあたりが旧・歌津小太郎工場のあった場所周辺です。 ここまでの写真は馬場中山カオル商店HP20130723
● 2014年8月の歌津の海・港・漁師・旨いものそして歌津小太郎情報 8月15日北海道根室港にサンマ漁の主力となる小型棒受け網漁船の初水揚げのニュースを見てホッとしました。先月から始まった北海道沖での流し網漁が不良との情報でしたので、来月から製造する新物のさんま昆布巻にどれほどの影響があるのかと、最悪の場合、今年はさんま昆布巻の製造が出来ない事態にもなりかねないとの思いもありました。サンマ漁はこれからが本格的な漁期に入りますので昨年のような不漁のシーズンでないことを心から願っております。
それから、地域の情報として復興に向けて大きな出来事がありました。8月1日(金)南三陸町では初めてとなる災害公営住宅の入居が始まりました。震災から約3年半、仮設住宅からやっと自分たちの住まいで生活が始まります。今後は戸建て住宅の建設なども始まり、新しい居住区が続々と生まれてきます。
それから、書き出しの部分で触れていましたが、8月23日(土)に埼玉県蓮田市でのイベントに馬場中山地区を代表して歌津小太郎が出店しますので、首都圏の皆さんでお近く方は是非お越しいただければと思います。場所は、「蓮田駅東口のくぼ通り」です。今回はまだ暑い日が続く中の屋外イベントですので、わかめ製品を中心に3-4品の歌津小太郎商品をお持ちして伺います。私(孝浩)が歌津から、そしていつものように“はすだ支援隊”の皆さんがいっしょに盛り上げて下さいますので、上野駅からは一時間弱ですので、お近くの方は是非いらして頂ければと思います。
<あとがき>
いつも長~くなってしまう歌津小太郎のブログの一部は、我々を気にかけてくださる出資者の方などからの情報発信に対するアドバイスを元に構成しています。自分達にとっては当たり前すぎてこれまでお伝えできていなかった歌津のことに漁師の仕事や海の旨いもののことなど、「こんなこと知りたい!」とリクエストを頂ければ今後のブログで反映していきたいと思いますのでよろしくお願いします。 (すぐには全てに対応出来ないかもしれません。そのときはゴメンナサイ!)
今回の教訓では、「善意を表明する的確な場さえあれば人は純粋に善意を示す」ということをご紹介したいと思います。震災発生の2011年3月から今回の記事にあります8月まで、概ね最初の6ヶ月の間に我々に支援の手を差し伸べて下さった皆さんとは現在も継続しておつきあいを頂いています。食べるものも水もトイレも不足していた避難所生活の当初の頃だけに留まらず、我々をこうして応援してくださる方々に対し、大変ありがたい反面、「自分だったら縁のなかった被災地域に対してここまで親身に時間も費用もかけて支援を継続できるだろうか」と思いました。それは私だけでなくカオルもそのように感じていたようです。
長くボランティアさん達の受け入れの窓口をしてくれていたカオルの言葉を借りると「そもそも人間には困った人をただ助けたいという気持ちが備わっていて、純粋に助けたいだけなんじゃないか」といいます。当初はなぜボランティアの皆さんが何の見返りもなしにわざわざこんな所まで支援物資を運んで来たり ボランティア活動をしに来てくれるのか理解できませんでした。馬場中山地区全体が避難所生活をしていた頃、不足していた日用品などをホームページで募集した際にそれを手配してくださった方から「支援する機会を与えてくれてありがとう。」というメッセージをいただいたことがあります。そういったメッセージを数多く頂いて、「純粋に助けたい気持ちのあらわれ」だと思うようになったといいます。
こちらの地区に対する行政からの支援が遅れる中、馬場中山生活センターのみんなはこの純粋な善意に支えられたおかげで被災直後の大変な時期を生き抜いてこれました。その善意を与える側と受け止める側のマッチングが非常にうまくいったのが我々の馬場中山地区であったのだと、あの震災から3年5ヶ月を経てようやくそのように振り返ることが出来ました。
まだまだ我々の地の漁業を中心とした正業(なりわい)も生活の復興も課題が沢山ありますが、全国の方からの善意に支えられてここまで加速して立ち上がることが出来ました。ようやくみなさまの善意へのお返しをするにはどうしたら良いか考えられるようになったのですが、私に出来ることは歌津小太郎商品だけに限らず歌津の魅力である“旨いもの”を広くお届けすることであろうと思い到りました。そんな訳で今回も長くなった次第ですが、ここまでおつきあい頂きありがとうございました!
記事担当 千葉孝浩
■□■□■今月の特集写真コーナー「あの夏、共に汗を流した仲間達の笑顔」■□■□■□■□■□
いつも後半に特集写真のコーナーを設けています。「あの夏、共に汗を流した仲間達の笑顔」と題しまして、2011年8月に馬場中山地区に来ていただいたボランティアの方の写真をテーマ別にご紹介したいと思います。写真素材は全て、馬場中山地区ホームページ(歌津小太郎第三の男・カオルが運営)の中でご紹介したものを再掲載しています。集合写真と皆さんの驚嘆の「仕事ぶり」を中心にピックアップしてみました。
テーマは、1.未来道プロジェクト8月編、2.なじょにかなるさープロジェクト始動編、3.8月、馬場中山地区のつながりを支えてくれた人々編 の順に並べております。それぞれの日付は写真のキャプションに年月日を8桁で記載していますので、もっと写真を見たい方は、馬場中山地区ホームページから日付で探してみてください。
[1.未来道プロジェクト8月編]
高台を通る未知未来道から海を眺めるベストショットです。遠くに島のように見えるのが歌津半島です。 馬場中山地区HP20110811
埼玉はすだ支援隊のトシさんと中山さんです。深夜の2時に到着し日帰りで未来道の様子を見に来てくれました。 馬場中山地区HP20110731
7月中に大まかにルートを切り開くところまで進んだ未来道を確認しています。この日の私は緑色のツナギ(一番右)です。 馬場中山地区HP20110731
自分達で建てた第二避難所(この頃は支援センターと言っていました)で未来道や今後の復興について話し合っています。 馬場中山地区HP20110731
8月2日、朝から未来道工事開始です。 馬場中山地区HP20110802
役場の方が未来道工事の様子を見に来ました。町の復興計画とうまくリンクさせるために頻繁に話し合ったほうが良いとアドバイスです。 馬場中山地区HP20110802
この日(8月2日)はテレビ局の取材も入っていました。 馬場中山地区HP20110802
ボランティア活動のために全国から集まった有志の皆さんが未来道の作業を手伝うために来てくださいました。 馬場中山HP20110806
木こりさんや草刈機で草を刈る方々です。 馬場中山HP20110806
写真では見えませんが木こりさんが根元をチェーンソーで切っています。 馬場中山HP20110806
10分後、あっとゆうまに木を伐採しました。馬場中山HP20110806
8月7日もボランティア活動のため全国から集まった有志の皆さんが未来道の作業を手伝うために来てくださいました。ありがとうございます。 馬場中山HP20110807
8月8日もボランティア活動のため全国から集まった有志の皆さんが未来道の作業を手伝うために来てくださいました。ありがとうございます。
こちらの皆さんは後に長いお付き合いとなる神奈川県座間市の『かおる建設工業』の皆さんたちでした。きっかけは、南三陸ボランティアセンターから「馬場中山地区では地域で自主的に避難道を整備している」という情報をキャッチし、“道路建設は本業だから力を貸すよ!”ということで来て頂くことになったのでした。 馬場中山HP20110808
8月28日朝、集中砂利敷き作業前の写真です。前日夜遅くに到着したはすだ支援隊は短い仮眠をとっただけ。 馬場中山地区HP20110828
未来道プロジェクトに初参加に人もいるので、作業前に未来道の全容を下見に行きます。 馬場中山地区HP20110828
別のボランティア団体の皆さんです。未来道プロジェクトに対して炊き出しをしてくださるとのことです。 馬場中山地区HP20110828
未来道で一番地盤の高いところ、見晴らしの良いところから砂利を敷き始めます。 馬場中山地区HP20110828
木々のすき間から海が見えます。 馬場中山地区HP20110828
快晴に恵まれ未来道工事日和です。この日もテレビニュースの取材が入っています。 馬場中山地区HP20110828
未来道が二股に分かれるところです。 馬場中山地区HP20110828
馬場中山地区HP20110828
少しずつ砂利を敷いていきます。 馬場中山地区HP20110828
林を切り開いた場所も立派な道になってきました。 馬場中山地区HP20110828
汗だくの作業の後には、こんなおもてなしを用意しました。馬場中山名物となっていた五右衛門風呂の復活です。入浴シーンの写真はこちらのブログには不適切なので掲載していません。 馬場中山地区HP20110828
8月29日、二日目の集中砂利敷き作業です。まずはトラックから重機を使って砂利を敷きます。 馬場中山地区HP20110829
地元のメンバーがスコップを持って砂利をならしていきます。女性たちも参戦です。 馬場中山HP20110829
馬場中山HP20110829
馬場中山HP20110829
昼食時のくつろぎ風景です。 馬場中山HP20110829
この日の昼食はやきそばにおにぎりと前夜の残りの焼き鳥、そしてデザートにスイカでした。 馬場中山HP20110829
はすだ支援隊のリーダー、トシさんの笑顔です。 馬場中山地区HP20110829
馬場中山生活センター前で海をバックに記念撮影です。未来道への集中砂利敷き作業を率いてくださったはすだ支援隊の皆さんが戻られる前にその場にいた全員が集まりました。 馬場中山HP20110829
[2.なじょにかなるさープロジェクト始動編]
なじょにかなるさープロジェクトのメンバーが北海道に到着しました。馬場中山HP20110802
わずかな情報を頼りに漁港をめぐり、わかめ養殖に使えそうな漁船を探します。こういった船が停泊しているところに行き、事情を説明し売りに出ている船がないか直談判で探しました。 馬場中山HP20110802
北海道に漁船探しに訪れていたメンバーが戻りました。書類を広げて精算作業をしています。 畳の上にダイニングテーブルと、不釣合いではありますが、ここはみんなで作った第二避難所の中でして有効に使われています。馬場中山HP20110804
北海道に行ってきた4人の若手漁師さんです。欲しい船が見つかりましたが、どのように調達するかを話し合っています。 馬場中山HP20110804
右のお二人が「なじょにかなるさープロジェクト」に支援を申し出てくれているホープインターナショナルさんのスタッフの方です。左側の漁師さんたちが漁船探しの視察の結果を報告しています。馬場中山地区HP20110805
なじょにかなるさープロジェクトで行った北海道視察についての報告書をまとめていました。
漁師をなりわいとする皆さんはパソコン操作や文章作成に使い慣れていません。そういった苦手なところもホープインターナショナルさんがサポートして下さっています。 馬場中山HP20110809
[3.8月、馬場中山地区のつながりを支えてくれた人々編]
後ろの女性二人が横浜市からボランティアで来た伊藤姉妹です。後に草刈り姉妹と名付けられ大活躍します。 馬場中山地区HP20110811
伊藤姉妹は大阪市内の有志の方から地域の子供達のためにと花火を沢山持参していました。 馬場中山地区HP20110813
泊りがけでボランティアに来ていただいた方には、みんなで作った第二避難所を簡易宿泊施設として開放していました。馬場中山地区HP20110814
ボランティアの伊藤姉妹の主催で花火大会が開催されました。 馬場中山地区HP20110814
花火のあとはスイカが振舞われました。 イベントが終了した後もボランティアさんと地元のみんなとの会話が盛り上がりなかなか解散しませんでした。 ここまで馬場中山地区HP20110814
伊藤姉妹による草刈り活動の開始です。馬場中山地区HP20110817
プロのカメラマンさんのボランティアさんは家族写真を撮影してプリントしてお渡しするプロジェクトを行っていました。 馬場中山地区HP20110813
馬場中山地区HP20110814
仮設住宅の前でもパシャリ。その時々のありのままの家族の姿をテーマにしています。馬場中山地区HP20110814
馬場中山支援センターでは、支援物資で頂いたパソコンが有効に使われるようになっていました。 全くパソコンに縁のなかった漁師さんのなかにも避難生活中で見よう見真似でキーボード入力が出来るようになり、簡単な情報検索が出来るようになった人が複数います。 馬場中山地区HP20110810
こちらは中山地区の海辺の休憩所です。はすだ支援隊による6月の“作品“です。漁師さん達を中心に有効に使われています。 馬場中山地区HP20110818
苗プロジェクトの第4便が届きました。秋野菜の苗と堆肥が中心です。すげ傘を被っているのが苗プロジェクトを主催する蛯名さん、右の女性が馬場中山の地域のメンバーの要望を取りまとめています。 馬場中山地区HP20110818
希望していた苗の分配を確認します。 馬場中山地区HP20110818
よく見えないかもしれませんが、苗プロジェクトで頂いた苗で育ったスイカです。 馬場中山地区HP20110818
ボランティアさん達が苗プロジェクトの苗から作ったトマトのおすそ分けを食べています。フルーツのように甘いトマトでした。馬場中山地区HP20110817 -
被災地からのレポート2014年8月8日 08:46
南三陸・歌津の海の幸&歌津小太郎商品の取り扱い店舗「みなさん館」情報
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”歌津小太郎 こぶ巻ファンド”の有限会社橋本水産食品の千葉孝浩です。
前回、7月29日にこちらのブログにアップした記事に対して、早速、反響とご質問がありましたので補足してご説明したいと思います。
まずは質問ですが、歌津小太郎工場のお隣にあります「南三陸直売所 みなさん館」に関してです。
2014.7.27 撮影
左:ほや 150円 右:ホタテ 150円 2014.7.27 撮影
この2枚目のホタテの写真に関しての質問ですが、「殻付き活きホタテ 1枚150円」が大変にお得で魅力的ということで、ギフト配送出来ないかというものでした。残念ながら「みなさん館」では生鮮魚介類は店舗での販売のみで配送の対応はしておりません。いずれはそういったことも出来るようになりたいのですが、現在は生鮮魚介類の取扱量そのものが少ないので、配送の為の発砲スチロール容器とか、生鮮品ゆえの配送への配慮の徹底ですとかそういったことの対応がまだ不十分なのです。
生鮮品以外、例えば歌津小太郎商品のように水産加工品全般は配送可能ですので、「南三陸直売所 みなさん館」のホームページからご覧になってみてください。
順番が逆となりますが、改めてこの「南三陸直売所 みなさん館」の解説をしておきたいと思います。
●「南三陸直売所 みなさん館」について
みなさん館は東日本大震災から一年半が経過した2012年10月7日に南三陸町の北部(旧・歌津町)の管の浜という場所でオープンしました。(歌津小太郎工場のお隣です)
「南三陸(みなみさんりく)」の「みなさん」が力を合わせて地域づくりをしていく場として『みなさん館』と名付けられたこちらの直売所では、町民が中心となり自然豊かな魅力ある南三陸の地場の農産物や海産物、それらを活用した味噌や漬物、弁当やお惣菜、お菓子などを製造販売しています。小規模ですが飲食コーナーもありまして、地元女性のグループが南三陸ならではのお食事を提供しています。
歌津小太郎ももちろん地域の一員として『みなさん館』の設立メンバーとして参加させて頂いており、私自身はその運営組織であるNPO法人夢未来南三陸の代表も務めさせて頂いております。また2012年10月から2013年4月までの間、歌津小太郎工場が完成するまでの7ヶ月間は『みなさん館』の中に作られたレンタル工房〔20平米〕を歌津小太郎の仮工房として使わせて頂きましたし、歌津小太郎の復興にはなくてはならない存在でした。そんなわけで、こちらのブログでも『みなさん館』は頻繁に登場しております。
南三陸町の中では、南側(旧・志津川町)の南三陸町の役場などがある中心地のエリアに「南三陸さんさん商店街」(みなさん館から車で10分の距離)という仮設店舗商店街がありますので、全国的にはそちらのほうが有名でして『みなさん館』はちょっと地味な存在です。しかし、震災以前にはそのような地元の産品を販売できる直売所がなかったので、この『みなさん館』が出来たことは地元にとっては大きな飛躍の場となりました。これまで商売をしたことがなかった女性たちもそれぞれが得意な分野を活かして『みなさん館』の運営に携わっています。
『みなさん館』ならではのヒット商品は、地元のお母さん達のグループが製造している「田舎風味噌」やみなさん館 館長自らが、土や水にこだわって生産した南三陸米(ひとめぼれ)など。食材以外では、女性たちが得意とする手芸作品も販売しています。 夏の期間限定商品としては、冒頭の写真にありますように殻つきホヤに活ホタテ、ウニの開口の日に当たればウニ(殻つき)など。
この時期限定のお食事メニューは、“ほやうどん”。また、年中のメニューとして、“油ふ丼”や“タコ刺定食”といったものをご用意しております。
夏休みで東北に足を運ばれる方は是非、『みなさん館』にお立ち寄り頂ければと思います。南三陸の自慢の食材の多くは試食できるようになっていますので、まずは味わってからお買い物を楽しんで頂けると嬉しいです。歌津小太郎商品も常に全商品ラインナップを置いていますよ!
みなさん館内の様子 2014.8.7撮影
館内にあるお食事処“むすび庵”。
メニューはこちら↑ 2014.8.6撮影
こちらは、“歌津小太郎コーナー”(冷蔵ケース)
こちらも“歌津小太郎コーナー”(冷凍ケース)
新・カタログも登場!
“感謝の想いを込めてお届けします。”
歌津小太郎は地域の復興とともに歩んでおります。是非とも多くの皆さんに歌津の地にお越し頂き我々の歩みをご覧いただければと思います。 記事担当 千葉孝浩 -
被災地からのレポート2014年7月29日 09:59
復活2年目~6月のまとめ報告と“7月”~「未来道プロジェクト」・「ファンド募集」
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”歌津小太郎 こぶ巻ファンド”の有限会社橋本水産食品の千葉孝浩です。
7月も最終週になり、すでに梅雨明けしたのではと感じるほどの酷暑に耐えながら毎日を過ごしています。本当は“毎月11日”を目標にこのブログをアップできるよう準備を進めているのですが、今回はかなり遅くなってしまいました。
いいわけとなりますが、この時期はどうしてもパソコンの前に向かう時間を取れなくなります。そう! お中元商戦の時期なのでした。
こちらは、藤崎本館地下2階歌津小太郎コーナー
今回の記事ではそのお中元商戦の中間結果をご報告しまして、震災後の3年間の振り返りでは7月の出来事である「’11年―未来道プロジェクト」、「’12年―被災地応援ファンド募集開始」、「’12年―自宅キッチンでの製造再開」といった内容を中心にご紹介します。いつも長~くなってしまうこのブログですが、この3年間に歌津小太郎だけでなく歌津/馬場中山地区を支えてくれた強力な支援者の皆さんの活動をご紹介することで、改めて感謝の気持ちをお伝えしたいということを秘かに狙った結果なのです。最後までお付き合い頂けると嬉しいです!
● 2014年6月の歌津小太郎活動報告
~お中元商戦の中間報告、主役はやっぱり“こぶ巻”です!~
6月11日より歌津小太郎が常設の販売コーナーを構えております仙台の老舗百貨店、藤崎のお中元商戦が始まりました。昨年の今頃は、4月の工場再開から日が浅くて充分な品揃えが出来なかったため、お中元セットをご用意出来ませんでしたので、お中元商戦としては3年間のブランクを経て今回より復活となりました。今回は、3,240円、4,320円、5,400円(いずれも税込)の3種類のセットをご用意しました。
お中元でも“こぶ巻”を選んで下さるお客様は日本人らしい気遣いを意識していらっしゃる方が多いです。こぶ巻は「喜ぶ」につながることと、“巻物”という姿が昔でいうところの書物にあたるので「勤勉に学問に励む」ということ、この二つの縁起をかついで贈り物の“絶対的定番”として考えて頂いているのです。だからこそ、「歌津小太郎がなくなると困るのよ~!」と。昨年のお歳暮の際にそのようなお声がけ頂いたのですが、再び贈り物のシーズンとなり、にっこりと微笑んで「この3年間、違う贈り物を探すのが大変だったわ!」とおっしゃって頂いたときには、また目頭が熱くなりました。
もう一つ、6月の嬉しい報告があります。前回の“5月報告と6月”のブログ記事の中で首都圏で歌津小太郎商品を扱っているところとして代理店契約をしている(株)加藤物産さんでの販売会のお知らせをしましたら、「歌津小太郎の応援団です!」と名乗って買っていかれる方が何人もいらしたという連絡を受けました。本来ならば私たちが出資者の皆様お一人お一人にお礼に伺いたいところなのですが本当にありがたいことです。震災前は全売上の9割以上は宮城県内のお客様という本当にローカルで小さな小さな水産加工屋の歌津小太郎ですので、首都圏にいらっしゃる出資者の方は、我々を全く知らなかったと思いますが、こうして被災地応援ファンドの仕組みをきっかけにご縁が出来て応援してくださること、本当に嬉しく、未来に向けて前に進むための励みとなります。
(株)加藤物産さんによる7月後半から8月にかけての首都圏での販売は、横浜、吉祥寺、新宿を予定しております。詳しくは歌津小太郎ホームページの「販売会のお知らせ」をご覧下さい。
●3年間の振り返り
2月のブログより、毎月ごとに3年間の同じ月は何をしていたか思い出して書き綴っています。 書き残しておくことで未来の自分達へのメッセージであったり、非日常的な体験をした私達の経験が今後の教訓につながったりなど、そういった出来事を皆様と共有できたらと思います。
歌津小太郎の旧工場及び千葉家の自宅のあった南三陸町(旧・歌津町)馬場中山地区は地域全体が壊滅的な津波被害を受け、どうにか津波を被らなかった公共施設・馬場中山生活センターという高台にある建物で200人が避難生活を送ることになりました。一階の天井まで津波を被った千葉家でしたが、6月中旬にはなんとか修復して住める状態になりましたので、避難所を出ることが出来ました。震災から4ヶ月を経過した2011年7月の出来事からご覧下さい。
☆ 2011年7月: 避難所の解散、未来道プロジェクト
[避難所の解散]
3月11日の震災・津波発生の日から丸4ヶ月を経過しました7月11日、我らが歌津/馬場中山地区の避難所である馬場中山生活センターはその避難所の役目を終え解散しました。海岸沿いの道路が寸断され孤立集落の状態で200人もの地域住民は明日がどうなるか判らぬままこの高台のセンターに集まり避難生活が始まりました。沢山のものを失い、大切な家族や友人まで失い、この地に未来があるのだろうかとガレキの山を前に落ち込む日々もありました。一方、辛い目にあったのは自分ひとり、自分の家族だけではないので、集団生活の中で助け合いながら、生活の再建を目指しました。避難所を出られるようになることが第一段階の目標でありましたので、それぞれに複雑な思いを胸にしまいながら、避難所の片付けを行いました。そして馬場中山生活センターはひっそりと静かに元の地域の集会所の役割に戻ったのでした。
避難所としての最後の晩餐会は7月9日に開催されました。馬場中山地区HP20110709
晩餐の食卓にあるのは、
つい先ほど捌いたお刺身でした。ここまで、馬場中山地区HP20110709より
馬場中山生活センターの中です。個人の荷物が全て運び出されたのでピンク色の敷物を4ヶ月ぶりに剥がします。馬場中山地区HP20110711
元の姿は板の間でした。そこにゴザとクッション性のあるシートを敷き、夜は布団を敷き詰めて寝ていたのでした。馬場中山地区HP20110711
震災から4ヶ月目の7月11日、馬場中山生活センターは元の集会所という役割に戻りました。馬場中山地区HP20110711
[未来道プロジェクト]
6箇所の仮設住宅地区と全壊を免れて元の家に留まった住民とでバラバラに暮らす我々は、いつかはまた「馬場・中山地区」としてコミュニティーを復活させることを強く願っていました。そのためには、次にまた同じような大規模な天災が起こったとしても、誰一人を失うことなく、そして集落が孤立することなく、すぐに家族全員の無事を確認できるようにしよう!!!――避難生活の中で沢山の話し合いを続けてきました。
話し合いの早い時点から持ち上がったテーマが避難道の確保でした。今回の津波では海沿いを通る道路が分断されたため孤立集落となり、最初の一週間ほどは命を繋ぐ水・食料の確保がままならない状態でした。唯一残った道は高台を通るとても狭い農道(道とは呼べないくらいのもの?)でした。そのルートを使って、今後の避難道として、あるいは高台への集落移転地区(予定地)への幹線道路として使い、百年先の世代まで安心して暮らしていける地域の再建をしようと立ち上げられたのがこの「未来道プロジェクト」です。
「高台を通る道」…といってもこんな風でした。馬場中山地区HP20110717
馬場中山地区にとってこの避難道の確保は絶対的に必要なものであることは明白でしたが、震災後3~4ヶ月を経過した時点では、行政側に要望を出しても全く手の回る状況ではありませんでした。南三陸町は役場自体も被災していましたし、職員で亡くなられた方も沢山いましたから無理もありません。そこで我々は、元々ある農道を活用して車が通れるくらいに幅を広げ、傾斜やカーブを緩めてと、「未来道」のルートを自分たちで話し合って決め、さらに全ての地権者(多くは避難民の方々)の了解を取りました。その上で、行政側への了解を取り、地域のメンバーと強力な支援者の皆様とともに、自分達で、自分達が生き残り安心して暮らしていくための道「未来道」の工事に着手しました。
この「未来道」の第一期工事は、多くの住民が避難所生活を脱した2011年6月中旬からルート検討を始め、本格的な工事は7月16日に着工、8月下旬頃には砂利道ながらも立派な避難道として完成しました。今回の後半の特集写真は、「未来道プロジェクト」を取り上げておりますので、のちほどゆっくりご覧下さい。
未来道のルートです。この写真でいうと、逆Y字型になります。現在の生活の拠点である馬場仮設と中山仮設から未来道を通り、県道を経由して国道45号線に抜ける全長が1.3kmの避難道です。 (馬場中山地区 未来道プロジェクトサイト)
自分達が生きるために作った「未来道」。このプロジェクトは立ち上がりの早い時点から馬場中山地区を応援してくださる支援者の方達の中でも、土木建設業を営む方々が推進して下さったおかげで実現しました。ベースとなる農道はありましたが道のないところは森を切り拓き、重機で道を広げ、津波で破壊されたコンクリートのガレキを砕いて砂利にして敷き詰めました。未来道工事に必要なものはあっというまに集まりました。例えば重機は支援者の中で土建業者さんが自社の重機を無償で差し出してくれたものを始め、「レンタル費を支援します」、「重機のガソリン代を支援します」、「ダンプの運転が出来ます」と、考えられないくらい多くの支援者の方がそれぞれの得意分野を生かした支援の手を差し伸べてくれたのでした。
我々、馬場中山の地域のメンバーは道路を作るのは初めてですが、多くが漁師を本業としますから力仕事ならなんだって出来ます! 沢山汗を流して、重機の届かない細かい部分の作業を行いました。私も普通免許で運転できる大きさのトラックで砂利をいっぱい運びました。この頃の写真はいつもツナギを着て、首にタオルを巻いていましたね。
かくして馬場中山地区を未来につなげたいという思いが「未来道」という形になりました。
☆ 2012年7月: 被災地応援ファンド募集開始、みなさん館建設開始、自宅キッチンでの塩蔵わかめ製造開始
最初に少し、前回の記事に盛り込めなかった「2011年6月」の話題をお知らせします。 (前回の記事もあまりに長くて割愛してしまった部分です)
歌津小太郎は震災で全ての生産資源を失ったため、どんなに復活を望む声が多くとも、資金面で不安要素を抱えていたため乗り越えられない壁にぶつかっていました。しかし、被災地応援ファンドで資金を調達することが決まると、いろいろな懸案も前向きな方向で決まっていくようになりました。工場建設計画は、地元、南三陸町の山庄建設㈱の協力もあって、海岸より1kmほど内陸にはいった管の浜(くだのはま)という地域に建設することになりました。工場の計画が決まり、再建後の販売計画も立てられるようになると、物事は好転して進むようになり、ファンド募集に必要な各種の数字も埋められるようになりました。
そして2012年6月28日、この日からミュージックセキュリティーズさんによる“歌津小太郎こぶ巻きファンド”の募集を開始したのでした。
自然と笑顔になりました! 歌津小太郎HP20120601
今振り返っても、この頃はいろんな「計画」でものすごく忙しかったです。実は、歌津小太郎の工場に隣接して、南三陸直売所「みなさん館」を建設することも決まりまして、こちらのほうが歌津小太郎の工場よりも先行して進んでおり、6月中には地鎮祭が執り行われました。完成後にはもちろん歌津小太郎の商品も扱って貰います。こちらは地域でNPOを立ち上げて運営していくものでして、私(孝浩)も地域のメンバーとして重要な役割を担っています。公益社団法人アジア協会アジア友の会さんにご協力頂き、NPOの立ち上げの最初からサポート頂きここまでたどり着きました。
みなさん館の地鎮祭です。 歌津小太郎HP20110726
地鎮祭の数日前の会議です。この当時は「夢未来南三陸」という名で任意団体として活動を開始していましたが、直売所のオープンに向けてNPOの認可を取得するべく話し合いを行っています。歌津小太郎HP20110726
歌津小太郎の話題に戻ります。
「工場がなくちゃ商品が作れない!」そう思い込んでいた私たちに、歌津小太郎ファンの皆さん達は良い意味で“ムチャぶり”をして下さいました。「震災から1年以上経つけど、歌津小太郎はいつ復活するの?」と藤崎デパートへの問合せに、「商品が作れるようになったらすぐに買うから連絡が欲しい」というお手紙。歌津小太郎の売り場を100%元の姿に復活させることは出来ないけれど、小太郎社長が漁師をやりながら最初に販売を手がけた当時のスタイルである本当に簡単な一次加工品の製造、すなわち「湯通し塩蔵わかめ」や海藻の乾物類ですが、これならば袋詰めの機械だけあれば小さなスペースでも作れますから、とりあえず出来るところから再建をスタートしようということになりました。
工場が再開するまで自宅キッチンが作業場です。 歌津小太郎HP20120707
小さな一歩ですが1年4ヶ月ぶりに歌津小太郎の商品が出来ました!歌津小太郎HP20120707
そんな経緯で「自宅の台所」で作った商品で1年4ヶ月ぶりに仙台/藤崎B1階の“歌津小太郎コーナー”が復活しました。7月12日-16日の5日間だけ、商品も「三陸歌津産湯通し塩蔵わかめ」だけですが我々には大きな一歩でした。顔なじみのお客様と沢山の再会を果たすことが出来ました。 これが実現したのは、藤崎さんの多大なるご支援があればこそですが、そのバックには我々の復活を待ち望む歌津小太郎ファンのみなさんの多大なるお力添えがあったのでした。
この写真は2011年3月14日、震災から3日後に藤崎の売り場撤退作業後に撮影したものでした。工場が跡形もなく流されましたので、売り場を維持するわけにいきません。みんながピースサインをしていますが、心情としてはとても悲しい日でした。 歌津小太郎HP20120719
その後、1年4ヶ月、この小さな貼り紙がそこにかつて歌津小太郎店舗が存在していたことを知らせていました。 歌津小太郎HP20120719
そして2012年7月12日、5日間だけですが、歌津小太郎が復活しました!チラシでも広く告知して頂きました! 歌津小太郎HP20120719
仙台/藤崎の地下1階、短期間ではありますがこの場に戻ってきました! 歌津小太郎HP20120719
☆ 2013年7月: “カフェかなっぺ”オープン!―歌津の魅力発信基地
1年前の7月の出来事ですが、千葉家の身内のことで恐縮ですがとても嬉しいことを一つご紹介します。次男の馨(カオル。私=孝浩の弟)が夫婦でカフェをオープンしました。旧・歌津小太郎工場のあった海岸を見下ろせる高台です。
かなえさんとカオル 歌津小太郎被災地からのレポート20131102
トレーラーハウスを使った小さなお店です。 馬場中山カオル商店HP20140626
こんな風に海を見下ろすカウンター席があります。暗いですが後姿は小太郎社長です。馬場中山カオル商店HP20140624
なぜ突然カフェの話か…きっかけは震災なのでした。2011年の夏の、馬場中山地区にボランティアとしてやってきたのが後にカオルの奥さんとなるカナエさんと妹のナナコさん。東北には全く接点がなかったのに報道を見て自分達でも何か出来ないかと長めの休暇をとって二人で横浜からやってきました。女性ならではの細かい気配りで支援してもらい、何度も何度も継続的に歌津に訪れて、明るく盛り上げてくれました。誰が名づけたか「草刈り姉妹」。我々の手の回らない雑草退治を汗だくになりながらやってくれる姿に賞賛の気持ちと親しみを込めつけられた名前なのでした。
ただ彼女達が活躍できるようになるには最初の頃は問題が―歌津のおじいさん・おばあさんたちの強い方言が理解できなかったのです。その“通訳役”となったのが弟・カオル。ここから先は長い話となるのでこのくらいで割愛しますが、詳しくはカオルが運営するホームページ“馬場中山カオル商店”をご覧下さい。
カオル&カナエさんの“カフェかなっぺ“は馬場中山の地元の方と遠方から訪れる方が集まれる場所を用意することで活気づけていくことを目指しています。早速「馬場中山に行ってみようプロジェクト」を立ち上げ、さまざまな仕掛けをご用意しています。こちらもぜひ見守って下さると嬉しいです。
あまりにも千葉家の内輪の話なのでこちらの被災地からのレポートでご紹介するか、ちょっとためらいがあったのですが、やはり嬉しいことなので取り上げておきます。 2013年4月の話に遡りますが、4月下旬は歌津小太郎工場の再開に加えて、こんなお祝い事がありました。
2013年4月29日、カオル&カナエさんの結婚イベントが行われました。参列者のドレスコードは「普段着」。この日、バラバラに暮らす地域の皆さんの多くが再び集いました。 馬場中山支援センター(ボランティアさんといっしょに作った台に避難所)前にて集合写真
お色直し後、「未来道」の一番見晴らしの良いところに会場を移して再び入場です。軽トラックがリムジンに見えてきます。
「未来道」の砂利道の上に白いバージンロードが作られました。遠くに海が見えます。
再びお色直しで「普段着」となり、ケーキではなくマグロに入刀です。
最後は、この日集まってくださった地域の方やボランティアの方に新郎の父である小太郎社長からお礼の言葉をお伝えしました。
この日、テレビニュースの取材も入っていました。「南三陸町の夫婦 地元の復興へ 特別な思いで企画した結婚式」と紹介されました。 ここまで馬場中山カオル商店20130429より
一方、そんなわけでこのブログの中で、「歌津小太郎の第三の男・カオル」と紹介していますカオルのマンパワーは“カフェかなっぺ“を拠点にした歌津・馬場中山地区を応援する各種プロジェクトに向くようになり、歌津小太郎の男性陣は実質、小太郎社長と私(孝浩)の2名だけになりました。それが歌津小太郎の現在の懸案の”人員不足“の要因でもありますが、それでも良いのです! 2011年4月上旬、千葉家の男性陣3人でロウソクの火を囲んで話し合った結論である「私たち家族は、これからの1年間は地域に貢献することを仕事とする!」をそのまま千葉家を代表して継続してくれているわけで、見方を変えれば千葉家の業務範囲が広がったということなのですから! それに歌津小太郎の商品の多くは歌津周辺の海藻を原料にしていますから、この地の漁業が完全復活となってこそ、歌津小太郎も完全復活といえるわけなのです。
さて、歌津小太郎の活動に話を戻します。
7月30日にはミュージックセキュリティーズさんの企画で3事業者合同の被災地応援ファンド事業者報告会を開いて頂き、40名ほどのみなさんに現在の歌津小太郎の状況を説明させていただきました。八木澤商店の河野さんや寒梅酒造の岩崎真奈さんにも初めてお会いしました。我々は工場を再建したばかり、次々に新しい課題に直面しているのですが、他の事業者の方も同様に悩みをかかえていること、そんななかでもファンドの出資者の方の強力な応援に助けられていること…事業者として同じような痛み、同じような志を、みなさんがお持ちであることを確認し、想いを分かち合えた貴重な機会となりました。
● 2014年7月の歌津の海・港・漁師・旨いものそして歌津小太郎情報
この時期は、ホヤやウニと言った三陸を代表する海の幸が豊富に出荷される時期なのですが、各港に整備されるはずの荷さばき場(1次処理施設)の整備の遅れで、思うような水揚げが出来ずに今シーズンを終えようとしいています。歌津小太郎でも先月に復活した「ほや醤油漬」の仕込みが7月上旬に終わり、予定では10月末ぐらいまで販売できる数量を何とか確保できました。(本当はもっと仕込みたかったのですが、お中元シーズン対応に作業ラインを組み替えなければならず、震災前の3割程度の数量を仕込むのが精一杯でした)…それでもホヤは今でも水揚げされています!! 歌津小太郎に隣接する「南三陸直売所 みなさん館」では地元志津川地区の漁師さんが、その日売れる分だけを毎日出荷してくれるので、8月末ぐらいまでは店頭に並んでいます。もちろん「みなさん館」ではお昼の時間帯など、むきたてのホヤもメニューにありますので、こちらにお越しになられた際には是非ご賞味されてはと思います。
2014.7.27 撮影
これからの南三陸は一年でも一番賑やかになる時期、お盆を控えています。歌津小太郎商品も出品している「みなさん館」がたくさんの方に利用いただき、地域に必要な施設としてより活用されるよう、歌津小太郎として地元からも盛り上げて行こうと思います。
2014.7.27 撮影
<あとがき>
いつも長~くなってしまう歌津小太郎のブログの一部は、我々を気にかけてくださる出資者の方などからの情報発信に対するアドバイスを元に構成しています。自分達にとっては当たり前すぎてこれまでお伝えできていなかった歌津のことに漁師の仕事や海の旨いもののことなど、「こんなこと知りたい!」とリクエストを頂ければ今後のブログで反映していきたいと思いますのでよろしくお願いします。 (すぐには全てに対応出来ないかもしれません。そのときはゴメンナサイ!)
2014年も半年が経過しました。いまの時点での歌津小太郎の復興の度合いは登山に例えると6合目を超えてなだらかな尾根が続く7合目を目指しているところかなというところです。強力な応援団がその登山に同行してくれ、ときには重い荷物の一部を担いで下さるおかげで、一歩ずつ、長い上り坂の歩みを進めることが出来ている、そんな気がします。被災地応援ファンドの支援者の方はなんと660人を超えました。こちらの皆さんも一緒に歩んで下さっているように思っております。本当にありがたいです。
今回の教訓ですが、「未来道プロジェクト」によって地域のみんなも私自身も「明確な目的があれば何だって出来るのだ」ということを身をもって体験しました。現代の生活では公共の仕事は役所がやることと思い込んでいますが、昔々は確かに道路作りも港の整備も人海戦術で地域の人々でやっていたのだから、自分達が必要なことは自分達でやっても良いのだし、出来るのだという単純なことに気がつきました。
ただ、人海戦術ではなく現代は重機などの文明の利器を使うわけですが、それらをその道のプロの方が支援者として手をさし伸ばして下されば、自分達だけの力では効率の悪さゆえになかなかゴールが見えないようなことでも、意外に簡単に道が拓けるのだということが判りました。「何だって出来る!」を後押しして下さった支援者の皆さんには本当に感謝しております。
記事担当 千葉孝浩
■□■□■今月の特集写真コーナー「未来道プロジェクト」■□■□■□■□■□
ブログの本文中に写真を沢山入れると間延びしてしまうので、5月ブログから後半に特集写真のコーナーを設けています。今回のテーマは「未来道プロジェクト」。 7月17日から本格的に着工し、8月下旬には砂利道ではありますが車が通過するのに支障がない程度に道を整備できました。そのため、今回は“7月”に拘らずにこの期間の写真をご紹介します。
(再掲)未来道のルートです。この写真でいうと、逆Y字型になります。全長が1.3km (馬場中山地区 未来道プロジェクトサイト)
未来道工事の初日です。気合が入っています。 歌津小太郎HP20120701
最初はこんな状態の道なき道でした。ここからの写真は7月17日の様子です。馬場中山地HP20110717
重機が入ります。
重機に近づいてみましょう!
その先の森の中でチェーンソー隊の皆さんが木を切っています。
黄色い重機の先端はハサミ状になっていて、切り倒した木を効率よく運び出します。
別のチームはバケット状の重機で道を広げる作業をしています。
作業が早いです。
チェンソー隊(木こりチーム)の作業も早いです。森だったところにあっという間に一本の道筋を通しました。
お昼は山の上で食べました。おいしいおにぎり・漬け物・ポテトサラダは馬場中山の女性陣チームが作ってくれました。 ここまでの写真は馬場中山地区HP20110717
ここからは7月18日です。作業二日目のチェンソー隊(通称、木こりチーム)です。
こちらの男性が「未来道プロジェクト」の立役者のIさんです。どんな重機でもスマートに扱います。栄養ドリンクを飲んでやる気満々です!
馬場中山地区のベテラン重機オペレーターも負けていません!
こちらも我々の地域の男性ですが彼は震災を機に重機オペレーターの免許を取りました。たのもしい即戦力です。
ここは昨日までは道ではなかった場所です。
未来道の終点は元々ある舗装道路に抜けます。
早々に担当するチェンソー仕事を終えた木こりチームの皆さん達、高台から合流する舗装道路を見下ろしています。体を張って仕事をする皆さん達、立ち姿がカッコいいです。ここまでの写真は馬場中山地区HP20110718
ここからは7月19日の写真です。作業3日目の朝、朝食後の姿です。彼らは福井県大野市の建設業会会員の有志の方でした。
3日目のボランティアさんは福井県のIさん一人を残し、それぞれの地域に戻られました。この日からは地域の男性陣がバリバリ動きます。
先端にハサミ状のものをつけていた重機は木を運ぶ作業を終えたので、バケット型に取り替えます。 重たいのですごく大変。左側でグレーのツナギを着ているのが私(孝浩)です。 ここまでの写真は馬場中山地区HP20110719
ここからはコンクリート破砕機、その名も「ガラパゴス」を紹介します。
コンクリート粉砕機(ガラパゴス)です。 ここからは、歌津小太郎HP20120701
コンクリートを砕いて、
いっぱい敷き詰めました。歌津小太郎HP20120701
ここからは8月28日の砂利敷き作業日の様子です。 馬場中山地区HP20110828
砂利を丁寧に広げる作業は人海戦術でやっています。
この日は女性たちもスコップを持って参戦です。
お昼はあの避難所だった建物、馬場中山生活センターの中も外も使って振舞いました。
林の中の道にも砂利を敷きます。 ここまで馬場中山地区HP20110828
8月28日-29日の二日間、集中して砂利式作業をしていただいたのはあの“はすだ支援隊”。 作業を終えて帰る前の集合写真です。ありがとうございました。 馬場中山地区HP20110829
[もっと知りたい方へ]
今回の特集写真コーナーで取り上げた「未来道プロジェクト」をもっと知りたい方は、以下のリンク先を参照下さい。
●馬場中山地区未来道プロジェクト 概要 -
被災地からのレポート2014年6月17日 10:45
復活2年目~5月のまとめと“6月”~「ほや醤油漬」復活と「苗プロジェクト」
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”歌津小太郎 こぶ巻ファンド”の有限会社橋本水産食品の千葉孝浩です。
6月になり南三陸も入梅時期を迎え、はっきりしない天候が続いております。
今回は、5月の嬉しい出来事二つのご報告に始まりまして、いつものように「3年間の6月の振り返り」、それから今年の6月のお中元商戦への取り組みをご紹介したいと思います。
「振り返り」の中では、沢山の出来事があったこの3年間の中でも歌津/馬場中山地区を支えてくれた強力な支援者の皆さんの活動を出来るだけ多く取り上げるようにしています。今回も長いですがお付き合いください。
カフェかなっぺの窓辺越しからの歌津の海の風景です。歌津小太郎の第三の男(弟・カオル)の夫婦が運営しているお店です。 馬場中山カオル商店HP20140601
● 2014年5月の歌津小太郎活動報告 ~歌津のホヤ、3年ぶりの復活です!~
5月は嬉しいことが二つありました。一つ目は、2014年5月13日、我が歌津/馬場中山地区で震災後初となる「ホヤ」が水揚げされました! ホヤは宮城県では大ファンの多い珍味なのですが、他県の方にはなじみがうすいかもしれませんので解説します。その形から「海のパイナップル」とも呼ばれるホヤは、「独特の深い磯の味わいが酒の肴に非常に合う」、「一度食べたら病みつきになる味」などと絶賛されています。しかし一方では鮮度が落ちると大変な臭み(金属臭と申しますか)が生じるため、最初の出会いが肝心で、宮城県民でも大嫌いな人も少なからずいるという強烈に個性的な海の幸です。
ホヤの3年ものです。ソフトボールくらいの大きさです。中に鮮やかなオレンジ色の身が入っています。 (歌津小太郎工場にて2014.05.13)
歌津小太郎ではこのホヤを「ほや醤油漬」としてお出ししていました。実はウチの商品のなかでも復活を望む声の多かったのが、一番目がダントツで「こぶ巻」ですが、2番目がこの「ほや醤油漬」でした。「歌津小太郎のほや醤油漬」は加工品なのだけど、生に近い食感で、風味、味覚を楽しめるというのが“ホヤ好き”の皆様にご好評でして、宮城県出身の都会で暮らすファンの方たちが帰省のたびに買って帰る、そんな人気商品なのでした。
その「ほや醤油漬」が6月4日より、仙台・藤崎デパートの歌津小太郎コーナーで発売開始となりました。(まだ原料が充分に確保出来ないので1日30個だけの限定販売となりますが…)
嬉しいことの二つ目ですが、5月22日(木)~28日(水)の7日間、千葉県船橋市にある、東武百貨店・船橋店6階イベントプラザで開催された『宮城・山形の物産展』に出店して参りました。連日盛況でして、首都圏の多くのお客様に歌津小太郎の味を直接知っていただくことが出来ました!
このイベントは今年で12回目を迎えるものでして、歌津小太郎は震災前からお声がけを頂き出店させていただいていました。震災後は2011年と2012年は商品が作れなかったのでお休みしていましたが、昨年2013年から再び出店させて頂くようになりました。本当にありがたいことです!
東武百貨店さんが力をいれて宣伝してくださいまして、7日間とも予想以上の人出となり、歌津小太郎コーナーにも沢山のお客様にお立ち寄り頂きました。また昨年は工場復活直後でしたので、商品の品数も少なかったのですが、今年は7品目をお持ちすることが出来るようになりました。品数も着実に進化しています!!!
普段はあまりお知らせしないのですが、今回は特別にこの7品目の売上数ランキングをお知らせします。 ジャーン、第一位はめかぶ漬! 続いて、さんま昆布巻、磯人漬、ひと味ぼれ(ひとみぼれ)、と続きます。常設で出店している仙台・藤崎デパートでの人気ランキングとは、それほど大きな違いは無いのですが、 仙台では人気があるけど、逆に船橋では第7位となった小女子(こおなご・地方によってはイカナゴとも言う)に関しては、もっと魅力をお伝えできるようにせねばと感じました。
こぶ巻きを中心にお持ちしました。 歌津小太郎-被災地からのレポート20140522
歌津小太郎のスタッフ自身が出向いて百貨店に出店するのは、震災後はこの東武百貨店・船橋店さんの催事だけですが、震災前は3ヶ月に一度くらいの頻度(年間に6回くらいの頻度で)で首都圏にも直接出店していました。今年は他の地域での催事出店のお声がけを頂いているのですが、当面は人員不足というのがネックで対応できずにおります。残念なところです。
ちなみに首都圏での販売に関してですが、実は限定した場所と期間になりますが、歌津小太郎商品が買えるチャンスがあります。東京・荒川区の㈱加藤物産さんとは歌津小太郎商品と代理店契約をさせていただいていまして、一週間の期間限定での販売会ですが、デパ地下コーナーでお求めが出来ます。詳しくは歌津小太郎ホームページの「販売会のお知らせ」をご覧下さい。6月は渋谷、浦和、新宿、池袋、吉祥寺に出店しています。デパ地下の小さな催事ブースでの出店なのでかなり見つけにくいのですが、加藤物産さんの主力商品である「中華くらげ」を山盛りで販売しているお店を探してみてください。
東武百貨店・船橋店さんでの催事に戻りますが、今回はフカヒレの石渡商店さんも出店されていました。 石渡商店さんはこちらの被災地応援ファンドの先輩事業者さんですし、いらしていたスタッフさんとも古くからの顔なじみですので、津波で被災して再建したもの同士、お互いに声をかけあいながら活気ある7日間を過ごしました。
●3年間の振り返り
2月のブログより、毎月ごとに3年間の同じ月は何をしていたか思い出して書き綴っています。 書き残しておくことで未来の自分達へのメッセージであったり、非日常的な体験をした私達の経験が今後の教訓につながったりなど、そういった出来事を皆様と共有できたらと思います。
歌津小太郎の旧工場及び千葉家の自宅のあった南三陸町(旧・歌津町)馬場中山地区は地域全体が壊滅的な津波被害を受け、どうにか津波を被らなかった地域の集会所・馬場中山生活センターという高台にある建物で200人が避難生活を送ることになりました。では、震災から3ヶ月を経過した6月の出来事からお読み下さい。
2011年6月、カレキ撤去後の歌津小太郎の元工場の敷地 (馬場中山HP20120701)
☆2011年6月: 暑さとの戦いの始まり、仮設住宅への引越し開始、そして苗プロジェクト始動
6月1日の時点では馬場中山生活ンターで避難生活を送っていたのは80人ほどになっていました。5月の下旬に地域への水道供給が復旧すると、停滞していた他の様々なことも加速して進むようになりました。その代表的なものが、「仮設住宅の建設」です。6月に入ってからは設備工事が整い完成した順番に数軒ずつの単位で仮設住宅に引っ越していきました。引越しといっても、家財道具をすべて流されているので、少ない荷物を軽トラックに一家族分の荷物が積み込めるという簡単なものでした。
仮設住宅での新しい生活が始まります。 馬場中山HP20110604
地域全体の希望としては、ご近所の家同士が同じ仮設住宅に入居できるようにという思いでしたが、平地が少なく山がちな地域の特色上、希お望がかなわず、大まかには6箇所の仮設住宅に移り住むことになりました。近いところでは馬場中山地区から1km、遠いところは10kmほど離れた場所ですので、特に漁師さんには不便な生活となります。
仮設住宅の建設風景です 馬場中山HP20110605
一方で、地域に残る人もいます。震災前の馬場中山地区は約80軒、200人の住民。そのうちの津波を被らなかった5軒、それと津波を被ったもののなんとか修理して住むことが出来る家が10軒程度、あわせて15軒ほどは当面は馬場中山地区のもとあった家の場所に残って暮らすことになりました。
歌津小太郎の千葉家に関しては、その馬場中山地区居残り組でした。当初は、自宅は一階の天井まで海水に浸かり、海側(東側)の柱の何本かがダメージを受けたので、「全壊」の判定を受け、一旦は解体と諦めていました。しかし、地元の大工さんに相談しまして大規模補修をすればなんとか住めるだろうというお話でしたので、ボランティアの皆さんとともに1階のガレキ処理を行い、大工さんにいくつかの柱を補修して頂いて強度を確保してなんとか住めるようになりました。そのような作業を5月下旬までは、地域全体が水道未復旧の状態で進めていたわけです。我が家の再建だけをとっても多くの方に力を貸していただきました。ありがとうございます!
自宅(実家)です。比較的高い位置にあったのですが、それでも1階天井まで、水に浸かりました。 歌津小太郎日誌HP201206
震災直後の自宅の写真です。 歌津小太郎HP20120701(撮影は2013年3月)
ある日のボランティアさんの集合写真です。ところどころ持ちこたえた家が点在します。 馬場中山HP20110616
そんな経過を経まして、6月中旬には小太郎社長と母のあさ子、そして弟(馨・カオル)3人が避難所を出まして元の家に戻ることが出来ました。私(孝浩)はと申しますと、やはり水道の復旧を待って6月上旬から歌津町内の内陸部にあるアパートのほうで家内と長男との家族3人の暮らしを再スタートしました。震災当時、長男は5歳だったこともありまして、馬場中山での避難所生活ではなく家内とともに家内の実家(仙台市)にお世話になっていました。震災の日、長男の通っている保育園も津波を被ったことを知りながら、道路がないために安否が分からないまま一夜を過ごすことになりましたが、次の日の早朝に高台の歌津中学校に保育園児が避難しているとの情報が入り、小太郎社長と弟(カオル)の二人で迎えに行ったことを、仙台にいた私は後でそのことを聞きました。幼稚園の先生たちに守られながら一晩を過ごした経験は、彼なりに衝撃的な震災・津波体験をしたのだと思います。
そんなわけで、6月から私たち家族は、それぞれの住まいから日中は馬場中山生活センターなどに出向いてそれぞれの活動を行うという生活スタイルになりました。それぞれの活動とは、母のあさ子は調理班、弟(カオル)が地域の情報発信による物資提供支援要請にボランティアさんの受け入れ窓口、私(孝浩)と小太郎社長は、地域の避難道「未来道」建設作業を、地域の皆さまや支援者の皆さまと共に汗を流す毎日でした。
地域の住民と、全国の支援者の皆さまの協力で建設した「未来道」の工事 (油圧ショベルは福井県大野市高茂組さんからお借りしました) 馬場中山HP20110617
さて、6月の馬場中山での被災住民の日常ですが、この頃から暑い日が続くようになり、それが新たなる問題の種でした。ハエが大発生しまして暑さと衛生面でのストレスを強く感じるようになってきたのです。実際に年配の方が暑さで体調を崩されて、救急車で運ばれるということも起こりました。(そのときは大事には到りませんでした)
そのようなタイミングで、数日おきに数軒ずつが仮設住宅へ引越しとなり、馬場中山生活センターでの避難住民が徐々に減っていきましたので、狭いところに大人数が暮らしていた分のストレスは緩和されるようになって参りました。
漁師さんたちが早朝、魚を獲ってきてくれました。冷蔵庫が充分ではないので、即、捌きます。 馬場中山HP20110607
避難所に残る人も仮設住宅に移った方もほぼ共通ですが、日中の作業はというと、男性陣のうち漁師さん達は海の清掃作業、それ以外の人達は公共の場所のガレキの撤去や薪作り、そして徐々に雑草が生えてきてガレキ撤去の妨げになるので草刈りというのが主な仕事でした。また、漁師さんの中には夜明け前に小船を出して魚を採り、すぐに捌いておかずの一品に加えてくれるようなチームも出来てきました。女性陣は毎日の炊事をというのは変わりませんでしたが、避難所の全体の人数が減ってきたこともあり、朝から晩まで炊事に追われることがなくなりました。そのようになりましてから、ようやくそれぞれの家庭で自給用程度に作っていた畑の手入れに時間を割けるようになりました。
毎日の避難所での料理作りで使う野菜やその他の食材は、実は行政からの直接支援というのは少なく、大半は歌津馬場中山地区としての情報発信で「欲しいもの情報」を伝えて、全国から送って貰っていたものでした。当初、電気が使えなかったので当然ながら冷蔵庫が使えませんで、日持ちしない食材の管理には本当に苦労しました。そんな中から女性陣達が思い始めたのが、せめて野菜は新鮮なものを地域の畑から調達できたら良かったのにというもの。
震災があったのが3月ですが、その頃はこの地域では畑への作付けを全くしていない時期でした。特に高台の津波被害のなかった畑に関しては、見るたびに「何かしらここに植えてあったら食材調達の苦労が半減したのに~」という思いがふつふつと湧いてきました。しかし、4月5月と農作業に最適な時期が訪れても植えつける苗を買うお金もなければ、地域の苗屋さんも被災していて連絡のとりようがない、調達できないという状況でした。
また、津波を被った畑も少しずつガレキを撤去し耕し始めてはいたのですが、表土を流されたので全く栄養分がなく、そのまま野菜を植えても育たないだろうというのです。こうして女性陣達から「畑仕事」の再建を求める声が増えてきたのですが、千葉家はあまり畑をやっていなかったので、私自身もカオルも農業には詳しくなく、女性陣の要望に応じて「野菜の種が欲しい」と情報発信に載せる程度でした。
そんなときに救いの手を差し伸べて下さったのが、南三陸町の西側(内陸側)に隣接する登米市の一人の農業者の方、Eさんでした。登米市内も地震の被害という点では被災していた地域ですが、内陸ゆえに津波による甚大な被害というのはなく、すぐに生活を再建できていました。そんな地域にいて、そして農業を営む自分が津波で被災した沿岸部の方のために出来る支援がないだろうかということで立ち上げたのが、私たち馬場中山地区の畑をやる住民に向けた支援策「苗プロジェクト」でした。
「苗プロジェクト」の仕組みは、野菜の苗や堆肥や有機肥料、農具などを馬場中山地区で必要とする人々に直接届けるというものです。馬場中山地区の人の8割ほどが「半農半漁」で、漁師のほうが主体ではありますが畑もやっている家が多かったのです。それを一個人の農業者の力と資金だけでは出来ません。そこで全国から一口1000円で資金を募り、運営していくというものでした。この「苗プロジェクト」の第一弾が6月4日に届けられました。トラックに満載した堆肥、予め希望を聞いて用意した野菜の苗、津波で農作業小屋も流されているので何もないだろうと用意してくれたクワやカマなどの農具。ご自身も農業者なので、至れりつくせりの品揃えで用意してくださいました。
届けられた農業物資を見たときの女性陣のテンションはものすごいものでした。翌日には全ての苗が植えられたことがその喜びを物語っています。その様子を沢山の写真で記録してありますので、今回の記事の後半の写真特集にしました。
とある雨の中、苗プロジェクトさんより追加の苗を頂きました。馬場中山HP20110626
「苗プロジェクト」支援者からの応援メッセージです。 馬場中山HP20110626
☆2012年6月: 元従業員の皆さんとの再会 ~再起を誓った日~
震災から1年3ヶ月。6月に入って早々に歌津小太郎の元従業員の皆さんに集まって頂きました。おかげさまで被災地応援ファンドの資金も活用してなんとか歌津小太郎再建の道筋が出来てきたため、元従業員の皆さんに説明できるところまでたどり着いたのでした。
我が家(実家)のリビングが会議室です。 歌津小太郎HP20120601
具体的なスケジュールをお伝えしています。 歌津小太郎HP20120601
工場跡地に向かっています。 歌津小太郎HP20120601
工場再建のスケジュールと皆さんのそれぞれの事情や今後の問題点を話し合い、再建に向けた準備を全員が一丸となってやることを誓いました。話し合いの後、元の工場の跡地に向かいました。そして撮った写真がコレです。被災地応援ファンドの事業説明の中でも使っている写真です。
自然と笑顔になりました! 歌津小太郎HP20120601
☆ 2013年6月: 理想の昆布は案外すごく近いところにありました
待ちに待った新工場が4月下旬に完成し、新しい環境に少しずつ慣らしていきながら歌津小太郎の商品を復活させていました。5月に入って看板商品のこぶ巻作りにトライしたのですが、どうしても震災前の歌津小太郎の味が再現出来ない! 理由は簡単で、震災の影響もあり満足のゆく原材料が揃わなかったのでした。こぶ巻の本格的な復活は旬のサンマが水揚げされる9月からと予定はしていましたが、看板商品の味を落としたら歌津小太郎の復活とはいえません!
納得のいく材料を探し、小太郎社長も私も北は岩手県大船渡から南は宮城県石巻まで、三陸海岸を右往左往。解決策はなんと被災地応援ファンドの中にありました。30年来のおつきあいのあるタツミ食品遠藤社長から「こぶ巻にするならあのしたづ(あの人たち)の昆布が最高だ!」とご紹介いただいたのが鵜の助さん。そう、“鵜の助4人の漁師ファンド”の彼らの昆布でした。
鵜の助さんでの集合写真です。 歌津小太郎HP20130608
昆布作業を見せていただきました。肉厚の昆布を規格寸法どおりにカットしています。 歌津小太郎HP20130608
詳しくは企業秘密で申し上げられないですが、簡単に言うと、昆布巻に適した昆布というのは、肉厚で弾力があるにも関わらず、柔らかくなければならないため、昆布の刈り取り時期や養殖をする海域など、特別な条件で水揚げされた昆布だけを用意してもらいました。 しかし昆布は手に入っても昆布巻のもう一つの主役、さんまは手に入りません。シーズンとなる9月までは昆布巻の生産を断念することにしました。
● 2014年6月の歌津の海・港・漁師・旨いものそして歌津小太郎情報
昨年のお歳暮シーズンより2つのアイテムで始まった昆布巻のギフト商品が、今年の夏から1アイテム増え3アイテムとなり、6月12日から始まった仙台藤崎百貨店でのお中元商戦に挑んでおります。私たちを取り巻く環境は依然として厳しく、4月の消費増税に始まり、今でも続く原発の風評被害などで決して見通しの明るい状況にはなっていませんが、今出来ることを一つ一つ形にして、皆さまからのご期待に応えてまいりたいと思います。
【販売再開情報】
6月4日(水)~ ほや醤油漬(120g) 1,080円(税込)
取扱いは、仙台藤崎百貨店「歌津小太郎コーナー」のみでの販売となっております。(一日30個限定)
6月12日(木)~ 手づくり昆布巻セット 4,320円(税込)
※他にも 手づくり昆布巻セット 3,240円(税込)と、5,400円(税込)があります。
こちらは、藤崎本館7階お中元ギフトセンター
こちらは、藤崎本館地下2階歌津小太郎コーナー
藤崎百貨店のHP からご注文いただけます。→ www.fujisaki.co.jp/
<あとがき>
いつも長~くなってしまう歌津小太郎のブログの一部は、我々を気にかけてくださる出資者の方などからの情報発信に対するアドバイスを元に構成しています。自分達にとっては当たり前すぎてこれまでお伝えできていなかった歌津のことに漁師の仕事や海の旨いもののことなど、「こんなこと知りたい!」とリクエストを頂ければ今後のブログで反映していきたいと思いますのでよろしくお願いします。 (すぐには全てに対応出来ないかもしれません。そのときはゴメンナサイ!)
今回の教訓ですが、まず教訓のというよりは2011年6月のことを思い出していてゾッとしたのが、「もしも震災が6月で、それから3-4ヶ月の避難所生活だったらどんなことになっていただろうか?」ということでした。というのは、6月というとかなり暑いですので、その中で電気も水道も寸断されたとなると、衛生面でかなりストレスの多い生活だったと思います。そういえば阪神大震災も1月でしたので、寒さのほうの苦労はあったかと思いますが、日本全体が「暑い時期の大震災」をここのところ経験していないのではないかということに気がつきました。となると、私たちが経験した「3月に被災、それから数ヶ月の避難所生活」よりも大変な事態がありうるのだ――私は想像したくもないのですが、是非ともそういった防災計画や行政の方などの専門の方には念頭において頂ければと思いました。
昔の生活を地域の年配者から伺うと、モノを冷やすといえば「井戸水でスイカを冷やす」というように、日常生活の中に井戸があり、電気がなくてもくみ上げることが出来てという生活だったといいます。馬場中山生活センターのご近所には数軒、現役で井戸水を使っていた家がありましたので、給水車が来るようになるまではそれが水供給の命綱でした。水道が整備され、各家庭の井戸はどんどん使われなくなってしまいましたが、もっと多くの現役井戸があったら、水の供給確保に加えて食材を冷やす場面でも井戸水が活用できたのではないかと思いました。とにかく「水」で最初に苦労し、「井戸」に助けられたので、災害時の井戸の効用について教訓として強く述べておきたいと思います。
記事担当 千葉孝浩
避難所のすぐ下にある民家の井戸です。これが重要なライフラインでした。手押しポンプは元々はついていませんでしたが、震災後に急遽支援物資として取り付けて頂きました。都会からきたボランティアさんが珍しがりながら水を汲んでいるところです。 馬場中山HP20110619
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ブログの本文中に写真を沢山入れると間延びしてしまうので、5月ブログから後半に特集写真のコーナーを設けています。今回のテーマはちょうど丸3年を迎えた「苗プロジェクト」。登米市の農業者の方が、馬場中山地区のおばあさん・お母さんたちと話し合いながら立ち上げて下さったものです。 この「苗プロジェクト」の2011年6月の活動を中心にご紹介したいと思います。
お隣の町・登米市で農業を営むEさんによる畑仕事のニーズのヒアリングです。 馬場中山HP20110531
そして6月4日、トラックに満載の堆肥と、 馬場中山HP20110604
野菜の苗が届きました! 馬場中山HP20110604
地域のおばあさん達が驚嘆しています! 馬場中山HP20110604
第二避難所(青い屋根)裏の畑です。堆肥の使い方などをレクチャーしています。 馬場中山HP20110604
一番左が「苗プロジェクト」を立ち上げたEさんです。馬場中山HP20110604
早速、植えています。 馬場中山HP20110605
6月10日、苗プロジェクトの第二便が届けられました! 馬場中山HP20110610
クワ・鎌・ジョウロもあります。 馬場中山HP20110610
第一便で間に合わなかった苗がこんなに沢山届きました! 馬場中山HP20110610
クワや鎌を持ってやる気満々のみなさんです。 馬場中山HP20110610
ナスの苗を定点観測しましょう。植え付け後10日です。 馬場中山HP20110615
20日後です。ちょっと判りにくいですが実がつき始めました! 馬場中山HP20110625
25日後です。ピンポン玉くらいになりました!ここからの成長が早いのがナスです。 馬場中山HP20110630
トマトです。まだ青いですね。 馬場中山HP20110630
こちらはジャガイモです。ジャガイモは5月下旬にタネイモを植えました。 馬場中山HP20110630
ちょっと判りにくいですがキュウリです。 馬場中山HP20110630
苗プロジェクトのキュウリです。植えてから一ヶ月を待たずに収穫です。 馬場中山HP20110630
と、ここまでが2011年6月の写真でした。
最後に現在の「苗プロジェクト」の活動をご紹介します。
2014年5月16日、今年の「苗プロジェクト」第一便が届けられました。ダンボールに苗が満載です。 馬場中山カオル商店HP20140516
お隣町の登米市のEさんが立ち上げた「苗プロジェクト」は3周年を迎えました! 現在は、継続して支援してくださる方が減りましたが、その代わりに堆肥を有料にして運営費の一部にするなど、徐々に自主運営化して続けています。馬場中山地区のおよそ70軒が参加していますので、仮設住宅に移り、バラバラに暮らしている皆さんも、この「苗プロジェクト」の到着日には一同に集まり、にぎやかな日となります。 -
被災地からのレポート2014年5月22日 10:53
今年も行きます!
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5月22日(木)~28日(水)の7日間、
千葉県船橋市にある、 東武百貨店・船橋店6階イベントプラザにて、
『宮城・山形の物産展』が開かれます。
詳しくはこちら→http://www.tobu-dept.jp/funabashi/event/6f/miyagi.html
(店内の様子)
今年で12回目を迎える『宮城・山形の物産展』。
歌津小太郎は、震災後今回で2回目の出店となります。
南三陸町歌津から、(有)橋本水産食品 千葉孝浩と
仙台から藤崎スタッフ1名が、売り場担当として足を運んでおります。
売り場には
・めかぶ漬
・磯人漬
・陸中漬
・ひと味ぼれ
・さんま昆布巻
・わかめ
・極上小女子
の7アイテムが並びます。
→こちらは、磯人漬・めかぶ漬
→こちらは、さんま昆布巻とひと味ぼれ
どうぞ皆さん、お近くに行った際には、是非寄ってってください。
記事担当 渡邊
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被災地からのレポート2014年5月13日 13:05
復活2年目~4月のまとめ報告と“5月”~避難生活の中での歌津の味
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”歌津小太郎 こぶ巻ファンド”の有限会社橋本水産食品の千葉孝浩です。
5月になりまして宮城県南三陸町の歌津の地も様々な緑が芽生え遅い春の花も咲き誇るようになりました。
特産のワカメの作業も4月末で終わり、港はワカメ作業の道具が片付けられました。
今回は震災当時、5月頃の避難所での暮らしぶりを中心に、来月からの復活商品のことにも少し触れてご紹介したいと思います。
歌津には海だけでなく山もあります。5月初旬にはこうして山桜が満開となります。
(馬場中山カオル商店HP2014 .05. 03)
● 2014年4月の歌津小太郎活動報告
4月は大きなイベントが二つありました。一つは4月5日の「埼玉県蓮田市・商工祭さくらまつり」です。
こちらに関しては前回の「3月報告と4月」のほうでハプニングも含めてご報告済みですのでそちらをご覧下さい。
二つ目は、4月26日にファンドツアー。3つのコースから南三陸エリアを選んで下さった方、13名の皆さんが歌津小太郎工場の見学に来てくださいました。出資者の皆さんに完成後の歌津小太郎工場をご覧頂くのは昨年10月以来の二回目となります。今回は小太郎社長と歌津小太郎の製造の責任者である母のあさ子、そして私の3名(孝浩)の3名でご案内しました。こちらも4月30日のブログで報告済みですのでそちらも合わせてご覧下さい。大変にタイトなスケジュールの中、参加者の皆さんから沢山の励ましと、そして歌津小太郎の味を試食いただいて喜んで頂き、参加者も我々も終始笑顔の1時間でした。
4月26日の集合写真です。前列の左から2番目が小太郎夫人のあさ子、後列の一番左から私(孝浩)、小太郎社長です。
2013年4月に現在の工場がオープンしましたので、ちょうど1年を経過しました。お越しいただいたみな
さんのご質問にお答えしているうちに、改めてようやくここまできたという実感が湧いてきました。
3月くらいからワカメの他にも歌津の名物の沢山の種類の海藻(当地では磯草と呼ぶのが一般的)が採れるようになります。こちらでは漁師の家の女性たちがこうした磯草を自宅の作業場で天日乾燥させています。この自然の力で乾燥させた磯草のなかでも品質の良いものを選んで歌津小太郎商品にしていますが、4月になってようやく震災前と同じくらいの品揃えがそろうようになりました。「ふのり」に「ひじき」に「まつも」に!
仙台/藤崎デパートにみなさん館にと、歌津小太郎の売り場は磯草商品のほうも賑やかになって参りました!
●3年間の振り返り
2月のブログより、毎月ごとに3年間の同じ月は何をしていたか思い出して書き綴っています。
書き残しておくことで未来の自分達へのメッセージであったり、非日常的な体験をした私達の経験が今後の教訓につながったりなど、そういった出来事を皆様と共有できたらと思います。
歌津小太郎の旧工場及び千葉家の自宅のあった南三陸町(旧・歌津町)馬場中山地区は地域全体が壊滅的な津波被害を受け、どうにか津波を被らなかった地域の集会所・馬場中山生活センターという高台にある建物で200人が避難生活を送ることになりました。では、震災から2ヶ月を経過した5月の出来事からお読み下さい。
☆ 2011年5月: 電力復活! 第二避難所完成! そんな避難所での暮らしぶりは…
まずはインフラの復旧の進捗に関して時系列でお伝えしておきます。(復旧の早かった順に並べました)
【5月末時点の地域のインフラ復旧状況】
・ 携帯電話 ◎: 複数の会社のものが4月中旬くらいから概ねつながるようになる。
・ ガス ◎: 元々がプロパンガスでの供給エリアでしたので、インフラというより供給体制(ガスの配達)が通常状態に戻ったのが4月下旬
・ 灯油(ストーブや発電機用) ◎: 不自由なく供給いただけるようになったのがやはり4月下旬。
・ 電気 ◎: 電力会社の尽力でこの避難所を最優先に作業を進めていただき、ようやく5月6日に電力供給が復旧しました!(地域で津波を被らなかった家も同様に、それから数日後に電力復旧となりました)
・ 水道 ○: 電力と同様、被災後の当初は、福井県の支援者からお借りした用水タンクに水を貯めて使っていました。こちらも避難所向けの供給を最優先で進めて頂き、ようやく5月27日に「蛇口から水が出る」ようになりました。しばらくは、飲料水用には使わずに、生活用水にのみ使うようにという指導でした。
・ 固定電話 ×: 止まったまま。電話線が壊滅ですし、家そのものが流されていますから復旧の見込みは不透明。
このように一番遅れていた水道が5月下旬に復旧しましたので、なんとか日々の生活がまわるようになったというのが5月でした。
また、4月29日から5月8日まで大型連休期間といいことがあり、この間に多くのボランティアの方がいらっしゃいました。一番の大きな変化は、第二避難所建設です。4月26日から始まった建設作業は驚くほどの急ピッチで進められ、5月に入る頃には外装工事は全て終わり、内装の工事が着々と進められていました。物資が不足する中、内装の壁材や畳にサッシと必要な材料が支援者のネットワークで手に入り、手際よく施工されていきました。仕上げの電気の配線工事も済むと、なんと、工事開始から15日後の5月10日には完成! こちらは女性陣の宿泊場所として使われることになりました。それぞれの布団を持ち込み、新築の第二避難所で初めて過ごす皆さん達の喜びようはまるでどこかの旅館に泊まりにきたようなそんな様子でした。
ちょっと判りにくいですが、高台の右側の赤い屋根が元々ある馬場中山支援センターで、左の青い屋根が第二避難所です。こんな位置関係です。 (馬場中山HP2011. 05. 27)
第二避難所の中の様子。広さが判りますでしょうか。 (馬場中山HP2011. 05. 09)
第二避難所の中の様子。大工さんが棚まで作って下さいました。 (馬場中山HP2011. 05. 10)
多くのボランティアさんの協力で第二避難所が完成しました。中でも全工程を中心的にやってくれたのが馬場中山出身で千葉県内で活動されている大工さんの紺野兄弟です。約一ヶ月間、本業の仕事をやりくりして時間を作り、馬場中山での活動に専念されました。 (馬場中山HP2011. 05. 18)
ここでちょっとこの時期の避難所での暮らしぶりを紹介しておきたいと思います。もう二度とこのような体験をしないことが最善なのですが、あの厳しい被災と避難所生活の中で私たちがどのように暮らしていたか、正直、私自身も記憶から遠くなってきているのです。出来るだけ教訓になることを中心に、5月の頃のありのままの避難所生活を思い出したいと思います。私(孝浩)や弟のカオルはそれぞれ物資の調達やボランティアさんの対応窓口など役割の仕事が多々ありましたので、代表例として70代の母(あさ子)の暮らしぶりで振り返りたいと思います。
震災後の当初は地域で被災した人の多くが馬場中山生活センターに身を寄せましたので、200名ほどの大所帯でしたが、一週間後にはそれぞれ親戚や知り合いの家に一時的に寄せて頂く等して歌津を離れる方もいましたので80名ほどに減っていました。それでも大人数でした。
避難生活の朝はものすごく早く、起床時間は朝4時頃でした。元々、漁師の仕事は朝が早いのですが一人が起きるとみんなが起きだすので、結果、そんな習慣となりました。5月になるともうこの頃には外が若干明るいですし、馬場中山支援センターは東に向いて海を見下ろすように建ってしますので、毎日、朝日を見ていました。
早朝から女性陣が食事の準備をします。朝ごはんは、5時頃から4班に分かれて流れ作業で食べます。主に前の日の食事の残りや、前日のうちに準備していた朝食を温めなおしたりして食べました。昼と夜は、自衛隊から炊いたご飯を人数分供給して頂いていまして、おかずだけを女性陣が作っていました。それに加えてボランティアさんから炊き出しを頂くことも多かったです。
電力供給が充分でなかったこともあり、晩御飯は暗くなる前には片付けを終わらせていたので、とにかく女性陣は日のある時間帯は常に炊事と洗い物をしているような状況でした。母は、歌津小太郎の仕事でも得意というか本業の調理班を担当していました。ときおり、歌津小太郎の味の海藻料理も出てきましたね。
ブルーシートの屋根をかけた屋外の調理スペースです。あさ子が「ひじき炒り」を作っています。
(馬場中山HP2011. 05. 09)
馬場中山の女性陣は皆さん料理上手です。そんな女性陣の活躍ぶりを、本ブログの後半に沢山の写真でご紹介しておきます。
食事関係は共同作業で行っていましたが、その他の洗濯や掃除は家族単位でやっていました。一方の男性陣達といいますと、漁師さんに関しては日中は海の清掃作業などを行っていました。大きなものでは、海に沈んだ小型船の引き上げをしていましたね。漁師以外の方々も、道路のガレキを取り除いたり薪を割ったりと、何かしら力仕事をしていました。今思い出してみますと、夜明けとともに起き、みんなが体を動かして仕事をし、食事し、そして日暮れとともに寝る。本当に原始的な生活でした。
いつ終わるか判らない集団生活でしたので、毎日、何かしらの事件が起きていました。先の見えない不安はありましたが、毎朝、太陽が昇り始めるのを見ると、“明けない夜はない“と思えてきました。
この朝日に励まされました。 (馬場中山カオル商店HP2014. 04. 29)
5月になりますと郵便のほうもこの馬場中山生活センターに一旦届き、それから各家庭に配布されるようになりました。その中には歌津小太郎の再建を願う一般のお客様からのお手紙も見られるようになりました。
☆ 2012年5月: はじめての経験、ファンド計画の構築中
馬場中山地区の状況としましては、震災前の例年ですと、5月の第一週くらいにはワカメ作業が終わりますが、2012年はまだ体制が完全には戻っていませんでしたので、5月第三週くらいまでワカメ作業がずれ込みました。また、なじょにかなるさープロジェクトとして商品化した「福福わかめ」を復興イベントなどでの直接販売の他に今後どういった体制で販売していくかなど、話し合いをしながら模索していました。
ワカメ作業が終わると、地域の女性たちにも時間に余裕が出てきました。そこで一時中断していた地域のキャラクター「ワカメンジャー」の編みぐるみ製作も再開されました。
「ワカメンジャー」は地域に来てくださるボランティアさんに大人気です。 (馬場中山HP2012. 05. 23)
一方、歌津小太郎の活動のほうは2012年4月からスタートした被災地応援ファンドへの参画のため、復興計画を立てていました。小さな家族経営の水産加工会社から少しずつ進歩してきた我々には、これまで、このような大がかりな投資計画など立てたことがなく、またファンドの仕組みというのもなじみがなかったので、ミュージックセキュリティーズさん(以下、MS社)の指導を受けながら計画を練りました。これまで歌津小太郎がどんな仕事をしてきたのか、このときには歌津小太郎の商品など何もない状態でMS社に説明しなければなりませんでしたが、取引先の多くの皆さんからの応援サポートがあり、なんとか我々らしさが伝わりファンドの名前も「歌津小太郎こぶ巻ファンド」と名付けて貰いました。
☆ 2013年5月: 新工場での商品復活―難題が山積み
待ちに待った新工場が出来、新しい環境に少しずつ慣らしていきながら歌津小太郎の商品を復活させております。加工品のうち早期に復活したのが「陸中漬」(くきわかめの漬物)と「磯人漬」(海藻4種類の和え物)。
5月末には、お客様からのリクエストの多い「さんま昆布巻」も試作してみました。ところが…
何十年も昆布巻を作っているのになんと大失敗! 同じようなレシピで同じように作っているのに違う。
理由は簡単、さんまも昆布も納得のいく素材を揃えられなかったのです。震災前のこれらの原材料は、取引先もその産地もまだ復興しておらず手に入りません。さあどうするか!
まずは昆布の調達をどうにかしなければなりません。小太郎社長も私も、かつての取引先を訪ね理想の昆布探しを始めました。
● 2014年5月の歌津の海・港・漁師・旨いものそして歌津小太郎情報
来月から新しく、歌津小太郎に復活の商品が加わります? …と言っても一時期だけとなりますが…
(工場にて2014.05.13)
歌津の海の幸を代表する「ホヤ」が、5月13日に震災後初水揚げとなり、藤崎デパート歌津小太郎コーナーにて「ほや醤油漬」が6月4日(水)から期間限定で販売できることになりました。事業を再開してちょうど1年、お客様からの販売再開のお問い合わせではダントツに多かった、自慢の看板商品がいよいよ歌津小太郎コーナーに戻ってまいります。しかしながら完全復活にはほど遠く、現在でも3年育ちのホヤの水揚げが供給不足の状況にあり、今シーズンは旬である夏場だけの販売となってしまいます。今後は、ホヤだけに限らず、ウニの商品にも取り組んで行こうと計画をしていますので随時報告したいと思います。
(工場にて2014.05.13)
<あとがき>
いつも長~くなってしまう歌津小太郎のブログの一部は、我々を気にかけてくださる出資者の方などからの情報発信に対するアドバイスを元に構成しています。自分達にとっては当たり前すぎてこれまでお伝えできていなかった歌津のことに漁師の仕事や海の旨いもののことなど、「こんなこと知りたい!」とリクエストを頂ければ今後のブログで反映していきたいと思いますのでよろしくお願いします。
(すぐには全てに対応出来ないかもしれません。そのときはゴメンナサイ!)
今回の教訓ですが、集団で避難生活を送った日々を思い出すと、一つ問題を解決するとまた一つ問題が増えという状況でした。そんななかでも不自由な調理器具を駆使して女性陣が用意してくれた美味しいものには和みました。我が馬場中山地区の避難所の結束が固いと周りの方から高く評価していただいたのも、美味しいもののおかげというのが理由の一つであると思います。そんな経験から得た教訓は、「大問題に直面したら、まずは美味しいものを食べて考えよう!」。是非、皆さんも実践してみて頂ければと思います。
○ 記事担当 千葉孝浩
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ブログの本文中に写真を沢山入れると間延びしてしまうので、今回から後半に特集写真のコーナーを設けたいと思います。今回のテーマは2011年5月に弟のカオルが撮影した写真の中から「女性陣の調理班の活躍」です。注目すべきは、5月27日までは水道が止まっている中、工夫をしながらいろいろな食事を提供してくれたことです。
朝食作りです。若干は朝日が入りますが、暗い中で頑張っています。 馬場中山HP20110505
表で洗い物班が待ち構えています。 馬場中山HP20110505
馬場中山生活センターの調理スペースはこんなかんじ。ボランティアさんに配る「がんづき」を作っています。 馬場中山HP20110501
休憩時に「がんづき」を配ります。器や箸を使わなくても食べられるように工夫したおやつです。
馬場中山HP20110501
卵を沢山頂いたので卵焼き作りです。 馬場中山HP20110509
大鍋で作る雑煮です。5月9日は第二避難所の落成の日でしたので、お祝いの料理まで作ったのでした。馬場中山HP20110509
鍋から溢れそうなくらい「あんこ」も作りました。 馬場中山HP20110509
おもちです。保存がきくので、支援物資として沢山届きました。 馬場中山HP20110509
あんこ餅の完成です。 馬場中山HP20110509
第二避難所落成のお祝いの食卓のあんこもちと雑煮です。 馬場中山HP20110509
とある日は、地域で採れたたけのこを料理していました。 馬場中山HP20110517
歌津の山では山菜も取れます。山菜料理はアク抜きなど手間がかかりますがお手の物です。 馬場中山HP20110517
近くの大きな避難所で自衛隊が準備してくれるご飯を運び込んでいます。昼と夜の分を受け取りに行きます。 馬場中山HP20110517
調理班・洗い物班の女性陣が最後に食事を取ります。この日のメインは天ぷらでした。 馬場中山HP20110517
天ぷらです。大量の大根おろしも準備してくれました。 馬場中山HP20110517
5月27日、台所から女性達の歓声が聞こえました。驚いて行って見ると、蛇口から水が出るようになっていました! 馬場中山HP20110527
生きるために必要な水の確保は福井県大野市の酒蔵さんからお借りしたこの水タンクにお世話になりました。同じく福井県大野市の土木建設業者さんがこの大型タンクを運んで下さいました。震災直後の比較的早い時点にこのタンクが届けられたことで、私たちは馬場中山の地で避難生活を続けることが出来ました。 馬場中山HP20110522 -
被災地からのレポート2014年4月30日 14:09
ファンドツアーin歌津小太郎
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歌津小太郎こぶ巻ファンド (有)橋本水産食品 千葉孝浩です。
ゴールデンウイークに入って、南三陸も春から初夏へと季節が巡って来ようとしています。
4月26日(土)ファンドツアー2日目も、まさにそのような絶好の好天に恵まれた中、11
名の出資者の皆様が歌津小太郎新工場を訪問されました。
当日は土曜日ということもあって、工場そのものは定休日でしたが、その分出資者の皆様に
は隅々まで工場内を見学していただきました。小太郎社長から事業再開に至るまでの経緯
とこれまでのご支援にたいしての御礼のご挨拶の後、各加工室についての説明や作業内容
などを、製造部門の責任者である千葉あさ子(小太郎社長夫人)から案内してもらいました。
その後、となりの南三陸直売所「みなさん館」に移り、歌津小太郎商品をはじめ南三陸の地
場の特産品を多数お買い上げいただきました。
もてなす側の私たちが、逆に皆様からおもてなしを受けたような、そんなあったかい気持ち
になりました。
わざわざのご訪問、本当にありがとうございました。 -
被災地からのレポート2014年4月24日 14:55
さんまのこぶ巻 「美味しい!」の声の数々
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昨年の秋に復活した、歌津小太郎の看板商品である「さんまのこぶ巻」。
納得のいく、昆布と出会い、脂ののったさんまが採れました。
(製造風景)
出来立ての一番美味しい時期のさんまのこぶ巻を出資者のみなさまに賞味いただきたく、
出資者の方に特典を送付しました。
出資者の方からたくさんの「美味しい!」の声をいただきました。
一部、ご紹介いたします。
「美味しかったです。
中に入っているさんまの味が濃厚で今まで食べてきた昆布巻きとは
比べようにもならない美味しさでした。(40代女性)」
「ぎっしり詰まったさんまの身、柔らかい昆布、それらの組み合わせが絶妙でした。
忘れられないおいしさです。私の家族も、南三陸町でつくられたと聞くと、
真剣な顔つきで昆布巻きの切れ身を箸にとり、
真剣に味わい、次から次へと口に運んでいました。(40代女性)」
「東北の味は、「塩辛い」というイメージを従来から抱いておりました。
今回の試供品を頂きましてその絶妙な穏やかで味わい深い味に感銘を受けました。寒さが例年になく厳しいといわれておりますが、「口の中でとろける様なこぶとさんまがとても美味しかったです。
これからも大いに良い品物を出していただき、歌津さんの粋を全国にまず知らしめてください。(60代男性)」
今回初めてこぶ巻を食べて、地元を中心に愛されてきたのがわかった感じがしました。
ぜひ守って頂きたい味です。
食べてみてよりいっそう応援したい気持ちが強くなりました。ありがとうございました。(40代男性)」
今年の秋も、とれたてのさんまでこぶ巻をつくり、
まだ送付していない新しい出資者の方々に送付する予定です。
また、さんまのこぶ巻は、
仙台の藤崎デパート、南三陸町のみなさん館等で販売をしております。
宮城県にお越しの際はぜひご賞味ください。
(みなさん館の店舗)
______________________________________________________________
「歌津小太郎こぶ巻ファンド」の詳細・お申込みはこちらから
http://www.musicsecurities.com/communityfund/details.php?st=a&fid=305 -
被災地からのレポート2014年4月18日 11:45
復活2年目~3月のまとめ報告と“4月”~ロウソクの火を囲み話し合った日から3年
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”歌津小太郎 こぶ巻ファンド”の有限会社橋本水産食品の千葉孝浩です。
あっという間に4月です。歌津小太郎の工場の再開が昨年の4月27日でしたのでようやく12ヶ月の1シーズンが巡ることになります。
今回は4月の季節の話題としては歌津の海岸のわかめ作業の賑わいを、震災の話題としましては歌津小太郎の男性陣3人でロウソクの火を囲んで話し合った日からの3年の進歩を中心に振り返りたいと思います。
また、4月25日と26日はミュージックセキュリテーズさんのファンドツアーが予定されています。南三陸エリアの訪問先として歌津小太郎新工場にも立ち寄って頂く予定ですので、是非、我々の愛する歌津の地にもお越しいただければと思います。
● 2014年3月の歌津小太郎活動報告
2014年2月28日より歌津小太郎初のセキュリテセット(買って応援)となる「歌津小太郎 とれたて!めかぶ漬とさんま昆布巻のセット」を3月31日までの期間限定で販売しました。おかげさまで私たちの予想を上回る80名様を超える方から約120セットのご注文を頂きました。製造スタッフ一同もやりがいを感じ充実した毎日で取り組めましたことに大変喜んでおります。ご利用いただいた皆さまには、あらためて感謝申し上げます!!
2月下旬から4月にかけてはわかめの収穫シーズンでして、この時期に一年間使用する分のわかめの各部位を、わかめの柔らかい部分と茎わかめに選別したり、めかぶをスライスにして急速冷凍で保管します。昨年の今頃まではまだ歌津小太郎の工場が復活していなかったので、この大事な仕込みの作業が出来ずに、その後の1年間は常に自社保有分の原材料が不足していた為に苦労をしたのですが、今年からはわかめを使う商品ラインナップを安定してお届けできるようになりました。
●3年間の振り返り
2月のブログより、毎月ごとに3年間の同じ月は何をしていたか思い出して書き綴っています。 書き残しておくことで未来の自分達へのメッセージであったり、非日常的な体験をした私達の経験が今後の教訓につながったりなど、そういった出来事を皆様と共有できたらと思います。
☆ 2011年4月: ロウソクの火を囲み話し合った日
震災当時の報道で、みなさんもご覧になったと思いますが、南三陸町は庁舎も壊滅的な被害を受けました。従って震災後の数ヶ月は会社の再建に必要な手続き、例えば新工場を建てるには様々な届出が必要ですが、そういった手続きは一切進めることができませんでした。それ以前に電気・ガス・水道そして電話と全てのインフラはストップしたまま。地域で一番高台にある馬場中山生活センターに我々千葉家の家族4人を含む200人もの人々が避難生活を送っており、支援物資も不足し最低限の生活を送ることもままならなかったのです。地域のなかで5軒くらいは津波の被害を免れた家もあったのですが、それでもインフラが全て止まっていますので、まともな生活をおくれる人は誰もいなかったのです。
震災から3週間ほどたった日の夜、自宅1階はぐちゃぐちゃでしたが、津波の被害から逃れた2階で、小太郎社長と私と弟(馨)の3人で会社のこれからや、家族のこれからについてロウソクの火を囲んで本音で話し合いました。事業を再開するには工場の再建よりも前に、地元の漁業の復興が不可欠であること、大切な家族や身内の方を亡くした方たちが身近にたくさんおられたことなど、今は自分たちの事をするよりも地域のことに専念するべきと意見がまとまり、「私たち家族は、これからの1年間は地域に貢献することを仕事とする。」という結論に至りました。
この辺りが工場が建っていた場所です(ガレキ撤去後に撮影) 歌津小太郎HP20120701より
自宅1階です。津波が1階の天井まできました。(2011年3月撮影) 歌津小太郎HP20120701より
この間は歌津小太郎の会社としての活動ではなく、自宅のある歌津/馬場中山地区の避難所での生活をご紹介します。
なお震災後のおよそ1年間の様子の詳細は、歌津小太郎ホームページの活動日誌(2012年7月1日版)にて沢山の写真を用いてどんなに感謝しても足りないくらいお世話になった皆さんの姿を紹介しています。
震災直後には地域の人々、約80世帯・200人が共同生活を送ったのが馬場・中山生活センターです。地域の中でも高台にある公共施設でして、ここは津波を被りませんでした。 私はこの避難所で避難生活を送りながら、物資調達班としてガソリン不足の中、仙台の宮城復興支援センターに何度も伺いました。歌津小太郎の仕事で仙台から北に約100kmの歌津までの距離(通常時であれば車で片道2時間)の移動に慣れていましたのでこの任務を自然に分担していただいたわけです。しかし、4月中旬くらいまではあまりの震災被害の大きさに宮城県側の行政による支援もまだまだ混乱が続いており、充分な食材を確保するのが難しい状況が続いていました。
馬場中山支援センターです。200人が避難生活を送りました。 歌津小太郎HP20120701より
馬場中山支援センターは地域で一番の高台にありそこから見下ろすとこんなありさまでした 歌津小太郎HP20120701より
震災直後の2週間は道路が寸断されて孤立集落の状態でしたが、なんとか自分達で海岸沿いの道路を車が通れるまでに復旧した4月初旬くらいからは南三陸町の内陸側の市町村の方を中心に災害ボランティアの方々が入ってこられるようになりました。また止まっていたインフラの一つの通信手段ですが、こちらは携帯電話会社さんからの応援で携帯電話がなんとかつながるようになり、さらに通信機器用のバッテリーを定期的に交換もしてくださるようになるとインターネットも接続できるようになりました。それが4月11日のことでした。この通信手段を手に入れたこの日から馬場中山支援センターは大きく変わりました。
「私たち家族は、これからの1年間は地域に貢献することを仕事とする。」 それを見事に実現したのが弟の馨(以下、カオル)の活動でした。2011年4月11日から馬場中山生活センターの様子を毎日毎日ホームページにアップし、さらにツイッターや各種のサイトへの情報発信を用いて「今、この地域で何が不足しているか」を伝えました。この情報発信の効果は予想以上で、ホームページの開設から一週間後には、「ホームページを見ました。○○を送ります」といった流れが出来上がったのです。その当時の様子は今もそのまま馬場中山地区ホームページを残してありますので、関心のある方は是非ご覧頂ければと思います。 (馬場中山地区ホームページはこちら→ http://www.babanakayama.jp/ )
この情報発信をきっかけに日本全国から本当にいろいろな物資をご支援頂きました。ここでは全てをご紹介できませんが、一つだけ、震災から3年たっても現役で活躍する大人気の支援物資をご紹介します。 その名も「暖助(だんすけ)」。こちらは長野県にお住まいの方がプロパンガスのボンベの廃材を用いて手作りで製作された薪ストーブでして、ツイッターによる情報提供でこちらの避難所に送って頂きました。4月になっても朝晩はまだ寒い歌津では、お湯を沸かしたりパンやお餅を焼いたりも出来る機能もついたこの「暖助」が大活躍しました。灯油やプロパンガスが無くとも、薪になる木材は大量にありましたから、この暖助の存在は本当にありがたく、暖助を囲んで語り合うという場の形成にもつながりました。
暖助の初登場の日(4月21日)です。お湯を沸かすしかけも付けてあります。 馬場中山HP20110421より
暖助を囲んでバーベキューの準備をしています。 馬場中山HP20110421
こうした情報発信による全国の団体や個人からの物資支援の流れと、仙台の宮城復興支援センターなどの行政側の支援、そして歌津小太郎のご縁による藤崎デパートや他の取引先様からの馬場中山地区への直接支援、その上に馬場中山の地に来て活動をしてくださる団体、こうした支援がつながるようになった4月下旬の頃には、ようやく「生命の危険」を感じるような危機的状況からは脱しました。そして長期化することが予想されるこの避難生活を乗り切るための次の段階に入ったように思います。
仙台市の藤崎デパートの皆さんが沢山支援物資を運んできてくださいました。レトルトカレー・お菓子・水・ジュース・衣類などをいただきました。みんな私(千葉)の藤崎デパートでのお仲間の方たちです。ありがとうございました! 馬場中山HP20110425
4月下旬になりますと避難所にさらに大きな進展がありました。一人分のスペースが畳1枚分より狭いという状況を見かねて、第二避難所を建設することとなったのです。このプロジェクトには複数の支援団体が連携して下さり、なんと基礎工事を開始した10日後にはこれまでの馬場中山生活センターのスペースとほぼ同じ大きさの避難所が出来たのです。このプロジェクトの際に初登場したのが「はすだ支援隊」です。
(次の節の2012年4月にも登場します)
第二避難所建設の様子 歌津小太郎HP20120701より
3日目でもうこんなかんじになりました 歌津小太郎HP20120701より
一方、歌津小太郎の直売コーナーのあった仙台の藤崎でパートの地下2階では、歌津小太郎の被災と今後の復旧の見込みが不透明であることを知らせる貼り紙がひっそりと貼られていました。常連のお客様からは藤崎側にお問合せも頻繁に頂いていたと聞きましたが、何もお答えすることが出来ない状態でした。
【4月末時点の地域のインフラ復旧状況】
・ 電気: 地域全体が停電のまま。電柱が壊滅していましたが、避難所までの電源供給用の電柱が建てられたところまでの復旧(電線は途中まで張られた)。避難所だけは小型の発電機で電気の使用が可能になっていました。
・ 水道: 止まったまま。福井県の支援者からお借りした用水タンクに水を貯めて使っていた。
・ ガス: 元々がプロパンガスでの供給エリアでしたので、インフラというより供給体制(ガスの配達)が通常状態に戻ったのが4月下旬
・ 灯油(ストーブや発電機用): 不自由なく供給いただけるようになったのがやはり4月下旬。
・ 固定電話: 止まったまま。電話線が壊滅ですし、家そのものが流されていますから復旧の見込みは不透明。
・ 携帯電話: 複数の会社のものが概ねつながるようになる。
津波を被ってもなんとか持ちこたえた家がまばらに残る中、電線が張られていました。(4月23日) 馬場中山HP20110423
☆ 2012年4月: 福福わかめの1000袋完売に涙
4月7日、歌津/馬場中山地区のわかめ養殖復活プロジェクトの成果を支援者のみなさんにお届けする第一弾のイベント「埼玉県蓮田市・商工祭さくらまつり」での「福福わかめ」の販売を行いました。この日に向けて2月から準備をしていましたが、わかめの塩蔵品を袋詰めしラベルを貼りと、1000袋の準備が完了したのが前日の夜のことでした。 このイベントはちょうど1年前、震災の年の4月から馬場中山地区の災害ボランティアとしてきてくれた「はすだ支援隊」によるその後の継続的なボランティア活動で深いつながりが出来たことによるものでした。
震災後はほぼ全ての水産物の出荷も出来ない、すなわち漁師さんたちにとっては全く収入が絶たれた状態だったわけですが、この年の2月下旬からわかめの出荷がそれまでの1/3くらいの規模で始まり、今回のイベントのようにわかめ漁師さん自身も参加して、直接お客様にわかめを販売するという経験をし、感慨もひとしおでした。足を止めてくださるお客様には、この「福福わかめ」が出来るまでの道のりをご紹介し、この4月中は全国のボランティアの方が今が最盛期のわかめ作業(めかぶを削いだり、茎を取り除いたり)までいっしょにやってくださっていること、精一杯、そのときの歌津の現状のことをご紹介させて頂きました。
イベント終了後の記念撮影です。1000袋が完売しみんなが笑顔です。 馬場中山HP20120407
一方、難航していた歌津小太郎の復興計画ですが、ようやく新工場の設計図面が出来上がり、いよいよこれからという段階になって、工事費の大幅な高騰や、町の復興計画の遅れによって、計画の見直しを強いられることになります。そんな絶体絶命の時に、工場の設計を始めから見直すことから引き受けていただいたのが、仙台の針生承一建築研究所の針生承一先生です。震災で全ての生産資源を失っていた我々は特に建設資金に問題を抱えていたため、針生先生からの強い勧めもあって、今回取り組んでいるミュージックセキュリティーズ㈱ 「被災地応援ファンド」に取り組もうと決意しました。今思うと、歌津小太郎のターニングポイントはこの時でした、ピンチからチャンスに状況が大きく変わったのは…
☆2013年4月: 念願の歌津小太郎工場再建 4月2日(大安)、待ちに待った歌津小太郎新工場の引渡しを受けました。55坪木造平屋の真新しい工場です。工事関係者の皆様には厳しいスケジュールをご対応頂き、なんとかここまでたどり着きました。 新工場の建設費は国と県から補助金が支給される制度(通称グループ補助金)を活用しています。当初、何が何でも平成24年度中(2013年3月31日)までの完工でないと補助金が下りないという縛りがありましたので、材料不足・人材不足で計画通りにはいかない現状を、なんとかみなさんが頑張って下さいました。
(補助金制度の工事期限はその後、若干緩和されるようになり事業者にとって使いやすい制度になりました) 建屋の完成を待って、新品の厨房機器やパック詰め機械に冷蔵庫など生産に最低限必要な機器を据付け、4月27日に新工場稼動となりました。
製造はベテラン従業員を中心に6名、そして4月から入社しました事務兼庶務を含む新人3名の総勢9名が工場を切り盛りしてくれます。
(ちなみに、このくらいの規模でも旧・歌津町のなかではベスト10に入る従業員数を誇ります)
歌津小太郎新工場の全景です。 歌津小太郎HP20130518
みんなで記念撮影です。 歌津小太郎HP20130518
●2014年4月の歌津の海・港・漁師・旨いものそして歌津小太郎情報
2月下旬から4月末までは歌津の海岸はわかめ作業で大賑わいです。そんな中、4月3日にチリ地震による津波の警報が歌津の地にも出されました。漁師さんたちは前日から船を陸に上げるなどの対策に追われました。津波予報そのものは数10センチというものでしたが、あの東日本大震災を経験してからは、どんなに小さな地震でもどんなに津波警報が小さなものでも緊張感が走ります。 幸いにも今回の津波はたいしたことがなく、漁師さんたちは4月5日にはもとのわかめ作業に戻ることができました。
しかし、そんな状況でしたので、4月5日(土)の埼玉県蓮田市でのイベントには予定していた漁師さんお二人が参加できず、私一人だけで蓮田に向かうこととなり……でも大丈夫! “はすだ支援隊”の強力なバックアップにより、例年通り蓮田のみなさんに歌津の地域と歌津小太郎の復興の進捗をお伝えすることが出来ました。そう、今回もホタテ焼きと歌津小太郎商品を沢山お持ちしたのですが、早い時点で完売! みなさん、ありがとうございました~!!!
当日は絶好のお花見日和となりました。
大漁旗が目印です。
ホタテ焼き担当は、はすだ支援隊リーダーの小森さんです。
私も、新わかめのセールスや試食に“てんやわんや”でした。
<あとがき>
いつも長~くなってしまう歌津小太郎のブログの一部は、我々を気にかけてくださる出資者の方などからの情報発信に対するアドバイスを元に構成しています。自分達にとっては当たり前すぎてこれまでお伝えできていなかった歌津のことに漁師の仕事や海の旨いもののことなど、「こんなこと知りたい!」とリクエストを頂ければ今後のブログで反映していきたいと思いますのでよろしくお願いします。 (すぐには全てに対応出来ないかもしれません。そのときはゴメンナサイ!)
2014年も1-3月の第一四半期を終えましたので、いまの時点の歌津小太郎の復興の度合いは、「とれたて!めかぶ漬けとさんま昆布巻きのセット」のご好評もありまして6合目まで進んだかなという感じです。皆様、ご支援、本当にありがとうございます! 支援をしてくださる皆様に少しでも早くご恩をお返し出来るように、まずは事業の環境を整え、私達が食べている三陸・歌津の「旨いもの」を多くのみなさんに提供できるようにしていきたいと思います。
最後に震災後の“教訓”ですが、この「振り返り」を書き綴り始めて改めて思い出したのですが2011年の4月の始め頃、歌津小太郎の男性陣3人でロウソクの火を囲み、とことん将来について話し合ったあの日のことを、この3年間、つまずくたびに何度も何度も思い出しながら走ってきて、あっという間だった気がします。「地域に貢献することを優先して行う」という決断により、カオルは得意のITを利用した情報発信力を活用して地域全体の渉外担当役となり、私は仙台と歌津を結ぶ物資調達役、小太郎社長は地域をとりまとめる同年代の人達との各種協議(相談役)を担当しました。
歌津小太郎の元の工場には小太郎社長が筆文字で書いた「企業理念」が掲げられていました。津波で工場は全て流されたなかでもその企業理念の額は奇跡的にみつかりました。そこに書かれている一節に「会社は経営者やお客様のために存在しているのではなく、従業員や従業員の家族の幸せを守るために存在しています」というものがあります。私は震災前に歌津と仙台を往復して仕事をしていたわけですが、それは歌津小太郎の経営のためではなく「従業員や従業員の家族(ウチの家族を含め)の幸せを守るため」であったことに気づかされました。それに気がつくと、震災後からすぐに地域の物資調達役を自然と与えられ地域全体の幸せを守ることにいち早く役立つことが出来たこと、千葉家の他の家族もそれぞれの得意な分野を活かして活動が出来たこと、こういったことが最良の選択だったと思います。
“教訓”的な表現にすると、「自分が今やっている仕事の本質的な意味を常に理解していれば、どんな困難があっても折れることなく柔軟に対応できる」、ちょっと長いですがこんなところでしょうか。
○ 記事担当 千葉孝浩
暖助を囲んでカオルの「馬場中山地区ホームページ」一周年を祝った日。第二避難所にて 2012年4月11日
カオルが撮影している為、本人は写っていません。 -
被災地からのレポート2014年4月2日 11:45
上野駅から50分! 埼玉・蓮田市のお花見イベントに出店します(4月5日)
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”歌津小太郎 こぶ巻ファンド”の有限会社橋本水産食品の千葉孝浩です。
2月28日から「歌津小太郎 とれたて!めかぶ漬けとさんま昆布巻きのセット」を期間限定で発売しま
して、無事3月31日をもちまして受付を終了させていただきました。今回、初めての試みで十分な準備
期間が取れない中、MS社の担当の方や、出資者の皆様からのご協力によって、予想以上のご注文を
頂き、製造スタッフ一同、大変に感謝しております。今後は、これに続く第2弾、第3弾を企画したいと
考えておりますので、変わらぬお付き合いを、どうぞよろしくお願いいたします。
今回は主に首都圏にお住まいの皆様に向けたお知らせとなりますが、4月5日(土)に以下
のイベントに出店いたしますので、お近くの方、是非、足を運んで頂ければと思います。
■埼玉県蓮田市・第24回商工祭さくらまつり
日 時 : 2014年4月5日[土] 10時~16時 ※雨天順延
開催場所: 元荒川河川敷公園(荒川橋~宮前橋間の緑町側)
蓮田駅より徒歩10分
イベント情報のリンクページ
http://asa-hasuda.jp/article.php?shop_cd=1011051418080223&id=16277&bc=12
元荒川河川敷公園の桜をバックに沢山のブースが出店しますよ(写真は2012年の様子)
歌津/馬場中山地区の漁師さん数名と私(千葉)がこの春に採れた「新物・湯通し塩蔵わかめ」
と、歌津小太郎商品「陸中漬」や「ひと味ぼれ」をお持ちします。私は歌津小太郎のハッピを着
ていますからすぐに判りますよ!
【解説】
私達、歌津小太郎のある南三陸町の馬場中山地区と蓮田市さんとは震災を機に深くおつきあいを
させていただいています。蓮田市と白岡町の建設業者さんの有志により結成された“はすだ支援
隊“の皆さんが初めて馬場中山地区のボランティアに来ていただいたのが2011年4月下旬。そ
れ以来、ガレキ撤去、炊き出しに始まり、第二避難所建設、道路建設といった大きなプロジェク
トも私達・地域のメンバーを導き奮い立たせながら協同で活動してくださいました。震災から3
年を経過した今もなお、ご支援を継続して頂いています。
そして私達、馬場中山地区の住民は地域のなりわいである漁業の復興、中でもこの時期が旬の歌
津のわかめを、震災の翌年である2012年から毎年この4月の桜の咲き誇る時期に蓮田の皆さん
にお届けできることを大きな喜びに感じています。
●2012年4月7日 震災から1年後に出店したときの様子
イベント終了後の集合写真(前列中央のハッピを着ている方が蓮田市長さんです。歌津から来
ているのは6名で残りは“はすだ支援隊”の皆さんです)
イベント開始前です。大漁旗を掲げているのが“歌津流”です!遠くからでも見つけやすいで
すよ。 しかし、風が強かったので後半は旗を降ろしてしまいました。
福福わかめです(実は袋詰め作業が前日の夜にようやく間に合ったのでした)
多くの方が「福福わかめ」を買ってくださいました。なんと1000袋が完売! 嬉しかった~
●2013年4月6日の様子
イベント開始前です。ちょっと寒い日でした。お隣のブースは新潟県小千谷市若栃地区。はす
だ支援隊の皆さんがこの若栃地区の雪かきボランティアをされているというご縁とのことです。
歌津小太郎の商品を3品お持ちしました(このときはまだ歌津小太郎の新工場のオープン前でしたが、“みなさん館”のレンタル工房を借りて作っていました)
イベント開始前に市長さんが激励に来てくださいました。
私はトレードマークの歌津小太郎のハッピを着ています!
みつけたらお声がけ下さい。
この日は後半から海藻戦隊わかめんじゃーが応援してくれました
誰よりも出店するスタッフ側の私達自身が一番楽しみにしているイベントです。首都圏にお住ま
いの馬場中山地区応援団の皆さんの多くが顔を出してくださること、我々の1年前からの進化を
この場を借りて支援者に皆さんにご報告できること、若手のわかめ漁師さんたちは顔の見える販
売を経験できること、などなど嬉しいことが沢山あるのです。
いつも事前準備にいっぱいいっぱいでブログでの事前告知が追いついていなかった昨年までを
反省し、今回は早めにこちら“被災地からのレポート“にお知らせさせていただきました。
出資者の方や、「めかぶ漬とさんま昆布巻きのセット」をお買い上げ頂いた方はその旨を、そうでない方
も「このブログで知った」など、是非、お声がけください! お待ちしています!
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