歌津小太郎こぶ巻ファンド ファンドニュース
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被災地からのレポート2014年3月10日 21:28
復活2年目~2月のまとめ報告と“3月”~歌津の新物わかめ&めかぶ
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”歌津小太郎 こぶ巻ファンド”の有限会社橋本水産食品の千葉孝浩です。 2014年も早いもので3月を迎え、大震災のあの日から丸3年となりました。 今回は3月の季節の話題としては“わかめ&めかぶ“を中心に、そして震災の話題 としましてはどこまでお伝えするべきか悩ましかったのですが、大震災のあの年 の3月を孤立集落の避難生活を中心に振り返ってみました。 ●2014年2月の歌津小太郎活動報告 2月は第一週と第二週の週末が全国的な大雪となりました。歌津では大雪もさる ことながら天候が悪いと海も必ず大荒れとなり、復旧整備中の漁港が大波で冠水 してしまいました。新しく整備したばかりのコンクリートで出来た側溝のふた も、軽々と持ち上げられ、あちこちに散乱するありさまに、あらためて自然が持 つエネルギーの威力を思い知らされました。 今後はそういったところの補修作業を進めながら、まだ不完全な漁港全体の整備 にも着手していくようですが、今回の南岸低気圧の影響で、さらなる工事の遅れ が懸念されます。
2月下旬からはいよいよ今シーズンのわかめの収穫がスタートしました。海岸に は毎日多くの漁師さん達が、家族総出でわかめの水揚げ後の加工作業を行ってい ます。この活気が4月下旬まで続きます。この地域で水揚げされる「新物わか め」は、波の荒い海域(外洋)で養殖された、肉厚で弾力の強い良質なわかめと して県下でも知られています。今回、この自慢のわかめの時期に仕込む「めかぶ 漬」の魅力をお伝えできるように企画したのが、地元の漁師が食べている新芽の 「めかぶ」だけを使って製品にした「旬!新物めかぶ漬」をこの時期限定で商品 化しました。 歌津小太郎としては初めての試みですが、これを「さんま昆布巻」とセットにし て“「セキュリテセット」美味しさの直送便”にチャレンジすることにしました。 皆さま、是非お試し下さい! (2月28日に販売開始しました! ご購入はこちら) ※わかめの「めかぶ」とは…(わかめは全長1~2メートルにもおよぶ海藻です が、その根元の部分にある胞子葉に相当する部位) この商品企画は歌津小太郎製造スタッフである漁師のお母さん達がキーパーソン となり実現する運びとなりました。ヒントになったのは昨年の今頃、こんな会話 から… “新物のでぎだばっかりのめがぶ、東京の息子さおぐったっけ、こでらんねっ て電話かがってきた” (新物の出来たてのめかぶ漬、東京にいる息子に送ったら、すごく美味しかっ たって電話かけてきた) “ほんで、今のじぎだげでも商品にしたら、おぎゃくさんにもよろごばれんでねぇ” (それなら、今の時期だけでも商品にしたら、お客様にも喜んでもらえるん じゃない)
●3年間の振り返り前回のブログより、毎月ごとに3年間の同じ月は何をしていたか思い出して書き綴りたいと思います。特に“3月”は思い出すのが辛いこともありますが、書き残しておくことで未来の自分達へのメッセージであったり、非日常的な体験をした私達の経験が今後の教訓につながったりなど、そういった出来事を皆様と共有できたらと思います。
☆ 2011年3月: すべてを奪われた、東日本大震災3月11日の震災の日の直前のことです。宮城県のPR誌(県政だより平成23年3・4月号)に私たち歌津小太郎と、被災地応援ファンドへの取り組みでは先輩にあたります、タツミ食品さん(遠藤社長のところ)の「湯通し塩蔵わかめ」を「食材王国みやぎ」のこだわりの逸品として2社をセットでご紹介して頂くなど、ごく普通に、そしてさらなる販路の広がりを目指して粛々と活動をしていました。歌津小太郎は小さな会社ながらも平成5年(1993年)に仙台の老舗デパートの藤崎さんに直売店舗を構えるようになってからは、地元のお客様のニーズに合わせた商品づくりに専念してまいりました。(それまでは首都圏をはじめとする全国各地での物産展を中心とした催事販売などにも力を入れていました)・食材王国みやぎ こだわりの逸品 ~湯通し塩蔵わかめ~ 平成23年3月1日更新http://www.pref.miyagi.jp/kohou/kenseidayori/backnumber/201103/kodawari/index.htm
震災の日は金曜日でした。当日の私は歌津を離れ、藤崎デパートでの勤務となっ ていましたので、朝から店頭に立って、旬の「新物めかぶ」などをお勧めしなが ら、お客様への対応に追われていました。 14:46に発生した地震の揺れはこれまでに体験したことのない、すさまじいもの で、地下2階の売り場はお客様も我々デパート側スタッフも、揺れが収まるまで は共に何がなんだか理解できない状態でした。 余震が続く中、全員急いで外に避難…私が第一に行ったのは確実に津波が来るこ とが予想できたので、歌津にいる皆に即避難の指示を伝えたくて、弟(カオル) に電話連絡を試みたのですが、全く通話がつながらない状態でした。 その日は、家族や従業員の安否がはっきりとわからないまま仙台で一夜を過ご し、翌日の夜にダメもとで歌津まで車を走らせました。この移動の中で目にした 震災の記憶も留めておきたいのですが、長くなるのでまた別の機会にご紹介した いと思います。 工場と自宅のある歌津/馬場中山地区は歌津半島の東側海岸部にあり、地域につ ながる道路は海岸線を通るルートしかなく津波で寸断されていました。12日の 深夜にようやく地域の皆さんが避難した馬場中山生活センター(地域の集会所) にたどり着き、小太郎社長はじめ我が家の家族全員の無事を確認することが出来 ました。それと同時に地域の様相は一変しガレキの山になっていることに真っ暗 な中でも気がつきました。 馬場中山地区はおよそ100世帯があり、多くがわかめの養殖を中心にした沿岸 漁業で生計を立てていましたから、海岸近くに家が立ち並んでおり、津波被害を 受けなかったのはたった5軒という有様。 海に面して建っていた歌津小太郎の工場は、高さ15mもの津波が押し寄せ跡形 もなく流され、海岸から少し高台に上ったところにあった自宅も、1階の天井ま で津波を被りました。電気・ガス・水道の全てのインフラは寸断され、震災のそ の日から、地域の人々は地区内で一番高いところに建てられていた集会所(馬場 中山生活センター)の広さ約60坪のスペースに200人が身を寄せ合っていま した。 「何もない」ってこういうことを言うのか。それを実感したのがここでの最初の 1週間でした。あまりにも被害が大きく、南三陸町の役場自体も被災していまし たので、200人が食べ物もなく避難生活を送っていても物資が全く届かず、ガ レキの山の中から何とか食べられるものを拾い集め、分け合いながら飢えを凌ぎ ました。ヘリコプターで物資を投下してもらえたのが確か震災から一週間目、寸 断されていた道路が地元の建設会社から油圧ショベルを借りて自分たちで復旧 し、なんとか車が通れるようになり孤立集落から脱したのは、10日ぐらいして からだと思います。 通信事情が悪く、震災の日に即避難した歌津小太郎の従業員がその後、津波から 逃げ延びたのかどうか… 数人の安否が確認できないまま、気が休まらない日々を過ごしていました…それ からしばらくして、全員の無事が確認できたのは、すでに震災から2週間以上が 経過していました。 道路が通れるようになると、ようやく災害ボランティアの方々や支援物資が地域 に入って来られるようになりました。しかし、被災地全体が大混乱のなか、最初 の頃はボランティアの方々の助けたい思いと、被災した我々のニーズとのマッチ ングがうまく行かず、食糧やすぐに欲しい生活必需品は不足したまま。いつまで この生活が続くのか、本当にこの地で生活を再建できるのか不安を抱えての避難 生活でした。 ☆2012年3月: わかめ養殖復興プロジェクト~なじょにかなるさ~ 震災から1年後、歌津小太郎の再建は2012年2月分の報告とあまり変わら ず、「計画」はなかなか計画通りにはいかないままでした。 歌津/馬場中山地区のほうは震災があっても、何があろうとも季節は巡ってくる もので、わずかな量ではありますが、2月から始まった「初物わかめ」の収穫が 最盛期を迎えていました。 2012年2月のご報告でさわりだけ紹介しました地域のさまざまなプロジェク トですが、「なじょにかなるさープロジェクト」というのが、この「わかめの復 活」を目指したものでした。
・なじょにかなるさープロジェクトは
http://www.babanakayama.jp/info/najonika/index.html
津波で船も漁具も全て失った南三陸町馬場・中山地区。その震災から4か月を経 て復興に向け『なじょにかなるさー(何とかなるさ)プロジェクト』を立ち上げ ました。このプロジェクトは、全国からのご支援のおかげで津波前の3分の1程 度の規模でわかめ養殖を再開することができました。 具体的には、2011年7月頃より立ち上がったものでして、全国の皆さんから の支援のおかげで、わかめ養殖に必要な漁船を手に入れ、養殖に必要な機材(わ かめ養殖ロープをつなぐアンカーをはじめ、全て)を徐々に整備し、この2-3 月のわかめ収穫に間に合わせたのでした。全国のみなさんからの支援は単にお金 の支援に留まらず、季節おりおりのわかめ作業にも力を貸していただきました。 重機の使える方は重機作業、「わかめ養殖を体験したい」と海岸の吹きさらしの 中でロープにわかめの芽を挟み込む地道な作業を何時間も手伝って下さった方、 このわかめをブランド化しようとアイディアを提供してくださる方。周りを見渡 すと、ガレキの残る風景の中、地域の者だけでは沈みがちになりそうな気持ちを 奮い立たせ、このように一緒に作業をすることで応援して下さった方が沢山いま した。 この地で収穫されるわかめの多くは、地域の漁協を通じて「南三陸産わかめ」と して出荷されますが、そのようにして作られた2012年の初物わかめのうちの 品質の良いものを厳選し「福福わかめ」と名付け、震災復興を象徴する商品とし て独自に販売しました。 これを一番に買ってくれたのも我々の地域を応援してくださった皆様。そして何 よりも顔を良く知る皆さんが、「わかめってこんなに旨かったんだ!」と言って くださったこと、普段の漁協に出荷して終わりというだけではない顔の見える販 売を体験し、わかめ漁師さん達も今まで以上の収穫の喜びを感じていました。 こうした地域の僅かな復興を目にし、我が歌津小太郎も必ず復活してみせると 誓っていました。しかしこのときの実態は、歌津小太郎の新工場の土地が決まっ ているだけ、他は白紙という状態でした。 ※(“なじょにかなるさー” は、“なんとかなるさ”を意味する地域の言葉です) ☆ 2013年3月: 歌津小太郎コーナーの再開! 震災の日から丸2年の節目を迎える3月11日に、仙台藤崎百貨店「歌津小太郎 コーナー」の常設テナントの再開が決まり、全従業員を集めた決起集会を3月1 日に開催しました。この日から元・従業員から再び歌津小太郎で働く仲間となり ました。総勢13名です。藤崎友の会の会報でも我々の再出発を取り上げて頂 き、再開初日には多くの歌津小太郎ファンの方が懐かしいお顔を見せてください ました。 たくさんの皆様の応援があって、この場に戻って来られたのです! その日は感 慨ひとしおの中、以前と変わらない環境で仕事ができる感謝の気持ちと、この日 を目標にしてやってきたのが間違っていなかったのだと、あらためて確認するこ とが出来ました。不安だらけの再出発でしたが、お客様の笑顔が、これから進む 険しい道のりを乗り越える、大きな自信となりました。 また3月初旬でしたが東京・丸の内にあります新丸の内ビルディングで「被災地 ウィークス」というイベントを開催していただきました。その中で歌津小太郎の 商品を特別にレストランでご使用いただいたり、社長の千葉小太郎がトークイベ ントに出させていただいたりしました。 震災以降、自社の再建とともに歌津の地域の復興に全力を注いでいたもので、 実は社長も私もほとんど都心に出ることなく過ごしていたこの丸二年間でした。 従いまして都内で出資者のみなさんにお会いするイベントに参加するのはこの時 が初めてでした。小太郎社長いわく、「熱心に応援してもらっている皆さまに、 お礼を言いたくてこのイベントに参加したつもりが、ついつい皆様の熱意につら れて自分達がしてきたことを話し過ぎてしまい、最終の新幹線で帰るのを断念し たんだ。でもじっくり話ができたんで行って来て本当に良かった。」と誇らしげ に土産話をする姿を見て、皆様と過ごした有意義な時間にとても満足そうでした。 ●2014年3月の歌津の海・港・漁師・旨いものそして歌津小太郎情報 冒頭の2月報告でもお伝えしましたが、セキュリテセットで歌津小太郎の商品の 取り扱いを開始しました。これまでお中元とお歳暮の時期だけは藤崎百貨店の運 営のもとに通信販売を行っていましたが、歌津小太郎として独自の企画で通信販 売を行うのは初挑戦となります。対面販売を主体として活動してきた私達です が、我々の自慢の「海の宝物」の旨さがみなさんにお伝えできているかどうか、 ドキドキの3月となります。 例年、この時期の歌津のわかめ作業には、歌津に住む漁師の家族の他に都会に出 ている家族や親戚も戻り手伝うことが多いのですが、震災を機に歌津/馬場中山 の地域全体の応援団となってくださった方などもわかめ作業を手伝いに来てくだ さるようになりました。力仕事だったり、めかぶの硬い茎の部分を切り分ける作 業(めかぶ削ぎ)だったり、洗って湯通しして塩を絡めたりと地道な作業なので すが、地域外の方に参加していただき、わかめのこと、海のことを素朴に質問頂 き答えているうちに、自分達にとっては何でもないわかめ作業が、以前に比べ楽 しくなってきているようです。 <あとがき> いつも長~くなってしまう歌津小太郎のブログの一部は、我々を気にかけてくだ さる出資者の方などからの情報発信に対するアドバイスを元に構成しています。 自分達にとっては当たり前すぎてこれまでお伝えできていなかった歌津のことに 漁師の仕事や海の旨いもののことなど、「こんなこと知りたい!」とリクエスト を頂ければ今後のブログで反映していきたいと思いますのでよろしくお願いします。 (すぐには全てに対応出来ないかもしれません。そのときはゴメンナサイ!) 最後に震災後の“教訓”ですが、最初の2週間、従業員の安否を確認できなかった ということがありまして、現在では従業員自身の携帯電話番号の他にご家族の携 帯番号も私と小太郎社長の携帯電話に登録しました。大規模災害の直後は携帯電 話がつながりにくく、かつ充電も出来るかどうか、それでも少しでも早く連絡を 取り合えるようにと思いまして…そして、3日間を耐えられる水と食料を今のう ちから備えるようにしました。私たちの場合、特に最初の3日間(72時間)がと ても深刻な状態でした…「自分の身は自分で守る。」 常日頃の心がけが、いざ という時の大きな違いになることを身をもって経験しました。 ○記事担当 千葉孝浩
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